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読解力をつける(4) やりなおし高校国語

「やりなおし高校国語」(出口汪 ちくま新書 2015)を読んだ。
副題に,「教科書で論理力・読解力を鍛える」がついている。

 タイトルの通り,高校の国語の教科書を読み直そう,という本である。「はじめに」から少し抜粋する。

おそらくどんな科目よりも,国語で得た学力は生涯役に立つはずである。それを役立てることができないのは,国語の学習の仕方が間違っていたからである。
実は,高校の国語教科書こそ,名文の宝庫である。
本書は書く教科書で定番となっ名文を取り上げ,大人になった皆さんに講義し直すといったものである。
何度も繰り返すが,国語ほど役立つ科目はない。日本語の力を鍛え,読解力や記述力,会話力を身につけ,思考力や感性を磨き上げるのに,これほど適した教材はないのである。

ということで,国語の教科書に掲載されている文章についての紙上講義=解説をしていく。とりあげている題材は

一学期 「論理」の基本を身につける
 山崎正和「水の東西」
 清岡卓行「失われた両腕」
 森鴎外 「舞姫」
二学期 自分勝手な「読解」からの解放
 丸山眞男 「「である」ことと「する」こと」
 夏目漱石 「こころ」
三学期 「時代背景」を理解して,読む 
 小林秀雄 「無常ということ」
 中原中也 「サーカス」
 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」

 教科書がなくても(当然だが)原文が掲載されているのでわかりやすく,面白く読んだ。
 一学期は「論理」

 読者の側からすると,筆者の立てた筋道,つまり論理を追うことによって,正確に筆者の主張を読み取らなければならないことになる。
 現代文の試験で高得点が獲得できないのは,筆者の立てた筋道を無視して,自分勝手に読み,自分勝手に設問に答えているから,どれほど練習したところで,合ったり間違ったりを繰り返すことになるという理由によるものだ。
 現代文は論理的思考を試される教科なのに,それと真逆な「センス・感覚の教科」と思い込んでいる人が今でも何と多いことか。

これについて,評論ではない,森鴎外の「舞姫」で,次のように書いている。

 人は主観的な生き物であり,それゆえ,何を読んでも,それを主観で再解釈し,結局は自分の狭い価値観や日常的な生活感覚の中で消化してしまうことになる。
 その結果,自分の価値観に合うものを面白いものとし,それ以外を受け入れようとしない。
 それではどんな名作を読んでも,自分の世界を深めることなどできないのだ。

このあとに,例が示される。

 私はある女子高で「舞姫」の感想文を書かせたことがある。
 女子高であるせいか,豊太郎の不人気は当然のことながら,悲劇のヒロインであるエリスの評判もまたよろしくない。
 豊太郎は「女の敵」であり,エリスは「女の恥」だというのである。
 妊娠し,精神に異常をきたしたエリスを捨てた豊太郎を「女の敵」とするのは理解できるのだが,なぜエリスが「女の恥」なのか?
 ある生徒の感想文にはこう書いてあった。
 エリスは豊太郎のような男を選んだが見る目がなかった。私ならあんな男を選ばない。しかも,捨てられてしがみつくのがみっともない。私なら自分からさっさと別れて,後で慰謝料を請求する。
 思わず「なるほど,だから,女の恥なのか」と納得したのだが,ここに今の国語教育の大きな問題点があると思ったのである。
 結局,作品を正確に,客観的に,深く読解することなく,自分の狭い価値観から作品を歪めて解釈し,断罪する。そして,それを個性や独創性だと勘違いする。このような国語教科書の読み方をしている限り,真の学力が身につくはずはないのである。

 つまり,豊太郎の心の動きがちゃんと読めていないである。さらに,それを読み解くには,明治という時代背景も勘案する必要がある。平成(令和)のテレビドラマを見ているような感覚では,豊太郎の立場や読み取れないということだ。

 さて,本書は,このように,高校の国語教科書に載っている作品をもう一度読み直そうということで,それぞれに筆者が解説を加えており,わかりやすく,面白い。
だが,副題の「教科書で論理力・読解力を鍛える」はどうだろうか。
 丸山眞男の「「である」ことと「する」こと」では,

 この教材の狙いは明確である。「イコールの関係」「対立関係」「因果関係」を駆使した論理性の高い文章なので,本来は論理の使い方をこの教材でじっくり学ぶべきだったのだ。
 実際に,論理の「ろ」の字も知らないような高校生が多く見られるが,いったいこの教材についてどのような教え方をされてきたのだろうかと疑問に思う。

と書いてある。実際,「イコールの関係」については,例示や引用,対立関係については「である」ことと「する」こと,因果関係については「「である」論理」から「「する」論理」への移行という形でそれを示している。しかし,これは,あくまでも,丸山眞男の「「である」ことと「する」こと」についての話であって,これを一般の評論文の読解にどう応用していくかについては書かれていない。
 いいかえると,『「「である」ことと「する」こと」についてはこうだよ』と書かれてはいるが,『「「である」ことと「する」こと」について,どのようにこれらを読み取っていくか』という方法論は書かれていないのである。
 読者は「なるほど,そうだなあ」とは思っても,これで他の評論文でも『「イコールの関係」「対立関係」「因果関係」を読み取って』いけるようになるのだろうか。高校生にはかなり難しいものと思われる。

 ことによると,高校の国語教科書に載っている題材を読み解くのは,実は高校生には難しいのかもしれない。夏目漱石の「こころ」では

だが,私は「こころ」を理解することは,高校生にとって不可能に近いと考えている。

と書いているのだ。

「やりなおし高校国語」は,題名の通り「やりなおし」であって,20代以上の,いや,もしかすると30代以上のひとが読むには面白いかもしれないが,高校生にとっては,かなり優秀な生徒でない限り難しいのではないかと思われる。