見出し画像

映像の力:マーラー第6交響曲の場合

映像の力はおおきい。
マーラーの交響曲第6番の演奏をいくつか視聴してみよう。それも第4楽章だけ。
以下はYoutubeへのリンク。

アバド・ルツェルン

バーンスタイン・ウィーンフィル

hr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)Andrés Orozco-Estrada


 まず冒頭。1stヴァイオリンがオクターブの跳躍からあがっていくところ。(タイトルの楽譜)
アバド・ルツェルンもバーンスタイン・ウィーンフィルも1stヴァイオリンの後方から弓の動きを映し出す。
hr交響楽団(フランクフルト放送交響楽団)Andrés Orozco-Estrada のものでは,1stヴァイオリンを前から映している。
どちらでもよさそうだが,演奏者目線と聴衆目線とでもいおうか,実は大きく違うのだ。個人的にはアバド・ルツェルンの映像が好みだ。

 始まってから8小節目。
スコアではティムパニは2人で演奏する指示になっている。dim するところからはひとりだ。

画像1


 バーンスタイン・ウィーンフィルのものでは,ここでティムパニが映し出される。するとティムパニの音が浮き出て聞こえてくるのだが,ふたりのティムパニがほんのわずかずれているのだ。
映像がなくても注意深く聞けばずれているのだけど,映像があるとよくわかる。
しかも,dimになっても二人で叩いている。
 アバド・ルツェルンではここでは全体が映し出されるので,ティムパニだけが浮き出て聞こえることはない。それでもティムパニのところに注目するとひとりで叩いているように見える。しかし,さらによく見ると向かって右でも叩いているようなのだ。アクションの大きさが違う。そして,アシストしている奏者がもう一人をよく見ている。アシストしているかのようだ。ズレはまったく感じない。

 そのあと,チューバのソロになる。どの映像でもチューバが映し出されるのだが,アバド・ルツェルンは正面からで,奏者の表情がわかる。まっすぐ指揮者を見ている。オクターブ上がるときの口の動き,ブレス。緊張感が見て取れる。

画像2

 聞こえたいパートを,指揮者は「そこ、出して」と合図することがある。アインザッツという出だしの合図だ。目だけの場合もあれば指揮棒で指すこともある。アインザッツが出されたら映像でもそこを出したい。そのタイミングがずれると,ひどい場合には台無しになる。そこ,映せよ と思う。
 バーンスタイン・ウィーンフィルの映像では演奏者の映像が頻繁に入れ替わる。替え過ぎで煩わしい場合もある。アバド・ルツェルンのものでは,ちょっと物足りないところはあるがうまく合っている。hr交響楽団のものはすこしタイミングがずれているところがある。なかなか難しいのだ。以前のNHK交響楽団などの放送では,指揮者をずっと映していたりで話にならなかった。カメラの台数も関係するだろう。

 マーラー第6の4楽章といえばハンマーだ。特別製の木製のハンマーが2回打ち下ろされる。英雄を倒すためのハンマーだということになっている。
 当然そこはハンマーが大写しになる。したがって,どんなハンマーが使われているかがよくわかる。
 バーンスタイン・ウィーンフィルのものは四角くてごっつく,箱のようなものに打ち付けているが箱が小さい。
 アバド・ルツェルンでは四角いがウィーンフィルほどは大きくない。叩く箱は,当たるところが板で補強してある。
 hr交響楽団のものは打ち出の小づちを長く大きくしたような形で,叩く箱も大きい。しかも,少し前からハンマーが映し出されるので,振り上げるところまで見えて期待感が大きくなる。
こういうものがはっきり見えるのも面白い。

 さて,ラスト。
次第にテンポが遅くなり,低音だけになって静かに終わる。・・・と思いきや,突然フォルテシモで全奏。
スコアも見ず,映像も見なければ,心臓が飛び出すほどびっくりする。
ハイドンのびっくり交響曲の比ではない。

画像3


ここで指揮者の映像になると,強拍を振る姿が出てしまい,フォルテシモを予測してしまう。
バーンスタインもアバドも,指揮者の合図がはっきり映っている。
この点,hr交響楽団のものは惜しいところだ。強奏のところで全体に変わるのだが,あと0.5秒というところで指揮者の合図が見えてしまうのだ。その転換があと0.5秒遅ければ効果は抜群。むしろ,少し前から全体にして,強奏になった瞬間金管が映るといい。

 さて,そのあと。
トランペットがディミヌエンドしながら音をのばし,ティムパニがリズムを刻み,最後は弦のピチカートで終わる。
ここは,アバド・ルツェルンのものがやはり秀逸だろう。
映像はティムパニ,トランペット,ヴァイオリンと順に移動する。トランペットのディミヌエンドに続き,最後のピチカートが,トゥンと鳴る。コンサートマスターとその近くの人の表情もいい。アバドの顔が映るのはその後だ。
hr交響楽団もウィーンフィルも指揮者が映ってしまっていて,ピチカートの緊張感がなくなってしまっているのだ。hr交響楽団のものは,指揮者が細かく振りすぎているためになおさら緊張感がなくなってしまっている。

 クラシック音楽の愛好家の中には,映像など邪道として,純粋に音楽だけを聞くべきだという人もあるだろう。しかし,あのカラヤンが,半世紀も前に映像をプロデュースしていたのだ。やりすぎ,という声もあったが。うまく使えば,相乗効果が見込めるのだ。特にロマン派以降では。