わたしは「健康で文化的な最低限度の生活」から逃げた

#マンガ感想文

2014年 わたしは21歳 仕事帰りにTSUTAYAに寄るのが日課だった 音楽も漫画も気になるタイトルがあれば何でも借りまくっていたお年頃だ たくさんの背表紙が並ぶ中ひとつのタイトルがわたしの興味を惹きつけた それが「健康で文化的な最低限度の生活」だった

なにがという訳ではない。(なんか学校で習ったなこの文句。こういう社会派の漫画が読めたらかっこいいかも)と思ったのかもしれない。そこに偽りなき「真実」が描かれていることを感じたわたしは、「社会派漫画が読めるかっこいい自分」につられてその本を手に取った。

正体不明の嫌悪感

家に帰りさっそく読んでみる。
正直に話すと、わたしはこのとき1巻を読み終えることができなかった。三分の一も読めていたか怪しい。なぜならわたしはこの漫画に嫌悪感を抱いてしまったからだ。こう、腹の底からグツグツと、膨れ上がる黒い感情。なんだこれは。腹が立って仕方がない。なんだこれは。もうこれ以上読みたくない。なんだこれは。わたしはこの漫画が嫌いだ!

そう思ったわたしは呪いの書でも扱うように翌朝返却BOXに突き返した。

あの日から一度もこの漫画を手にはしなかったし、しばらくはこの漫画が視界に入ると目を逸らすようになっていた。どういう理由〈ワケ〉か自分でもわからなかった。ただ、とにかく嫌いだった。

あれから7年の月日が流れ、わたしはこの漫画と再会を果たす。
あの正体不明の嫌悪感からこの漫画との再会に至るまでを振り返ろうと思う。

漫画との出逢いよりすこし時間を遡る。わたしは専門学校を卒業し19歳から病院の受付で働いている。そうするとなにが起きるかと言うと、生活保護受給者と、相手が「生活保護受給者」だと認識しながら接することになるのだ。働き始めてから「生保」という言葉を知った。最初はなんのことだかまったく分からなかった。先輩から「生保は医療費かからないから本人に請求しないでね」という説明を受けて、はい!わかりました!とその言葉をそのまま暗記した。「セイホハ イリョウヒ カカラナイ」
わたしは患者から「生保です」と言われてもなんの感情も抱かなかった。知らないものにはなんの感情も抱きようがない。ただのマニュアルのひとつだった。それでも多少は(なんか事情があるんだろうな。そういうひともいるんだ)とぼんやりと察するようになってきた。そんなある日、わたしはこぼれそうな涙を必死に堪えないといけない状況に陥った。
小柄な年配の女性だった。その女性は受付でわたしに小さな声でこう言った。

「生活保護なのに病院を受診してごめんなさい…」

…え?

「ほんとうにごめんなさい…」

え?どうして謝るの?わたしに?生活保護受給者って謝りながら生きているの?え?どうして?

『そんな、謝らないでください。権利なんですから。具合が悪いときは病院を受診してくださいね』

わたしは心の底からそう思ってその女性に伝えた。ことまでは覚えている。
それ以降のことはショックのあまり覚えていない。さっき耳に入ってきた言葉が脳内をめぐる。ドッドッドッ…心臓が痛い。痛い。痛いよ。世の中のことをあまりに知らなすぎたわたしはこの言葉が胸に深く刺さり抜けなくなった。その時、「人が尊厳を大切にされていると感じられるような対応」がわたしに求められていることに気づかせられた。

黒い塊の正体

この漫画と出逢ったのはそれからしばらく経ってのことだ。本を手にし読むうちに、あの女性の哀しい顔が声が言葉が脳裏に浮かんだ。そして黒い塊が腹の底からズズズ…と逆流してきた。あの気持ちは恐怖だったんだと思う。わたしはこわくなったのだ。あの女性の言葉の本当の意味を知るのが。「ごめんなさい」の本当の意味。受給者が生きている世界、見えている世界、聴こえている言葉。初対面のひとに向かって「ごめんなさい」と口走らせる、目に見えない、彼らを異常に見張る世の中の歪んだ目。わたしは逃げた。世界にどこまでも美しくていてほしいと願う自身の欲求のために逃げた。知ることから逃げた。
思い描いていた美しい世界の割れ目からおぞましいヘドロがこぼれてきて、あわてて蓋をした。そんな勝手な自分を守るためにわたしは「この漫画が変なんだ」と思い込み、それが嫌悪感として現れたのだ。
わたしは幼くてずっと向き合えなかった。知ってしまってもなお世界のことを好きでいられるか自信がなかったからだ。どうしてひとがひとらしく生きるためにお金が必要で、ひとがひとらしく生きるためのお金を準備できないと他人に謝らないといけなくて、劣等感を抱きながら非国民だと思われながら世界の端のほうで生きていかないといけないのか。道徳の教科書で教えられた思いやりとは何だったんだろう。この世界のことを嫌いになってしまうくらいなら、なんの力もない自分に絶望してしまうくらいなら、そう言い聞かせてわたしはキツく目を閉じた。

変化

それからわたしの考えを大きく変える特別な出来事があったわけではない。どちらかと言うと小さな出来事の積み重ねだった。この漫画を読む勇気がでないまま、それでもわたしは少しずつ世の中のおかしさと向き合う努力をしてきた。人との繋がり。本ではなく、メディアではなく、他人の言葉でもない、人との繋がり。根掘り葉掘りどういう経緯でここに至ったのか本人に訊いたわけではない。かわいそうなエピソードを作りだしたわけではない。「このひとは一体どういう人間なのか。おなじ人間ではないか。」そう思い、ひととしての体温を感じるようにしてきた。「生活保護受給者」というのはそのひとが置かれた状況を表すだけの言葉であって、そのひとの本質ではない。そのひとたちの生活すべてを見ているわけではない。わたしたちは人生のうちのほんの一瞬「患者と受付」という立場で会っているだけだ。すべてわかるわけない。わたしだって人から勝手に決めつけられるのはいやだ。

そしてわたしは「美しい世界」というものを盲目に信じることをすこしずつ辞めた。そして「美しくない世界」があることをすこしずつ受け入れた。それでも世界のことは嫌いにならなかった。考えすぎて飲み込まれてしまいそうなことはあるけれど「愛そう」と思った。「愛したい」と思った。生きていると様々な感情が出てくる。「嬉しい」と思ったらどうして嬉しいと思ったのか、「悲しい」と思ったらどうして悲しいと思ったのか、「腹が立つ」と思ったらどうしてそう思ったのか、わたしは自分の感情と向き合うようになった。それが染みついてくると、ある時突然理解できたのだ。あの時の黒い塊の正体を。わたしはこの漫画が嫌いだったんじゃない、こわかったんだ。あの時自分の腹に出現した塊の姿が見えなくてずっと不安だった。得体のしれない感情がわたしのなかに存在していることが。ようやく塊の正体(とても小さなものだった!)を見つけることができて心底ほっとした。

再会

めっきり漫画を読まなくなっていたがある日風邪をひき、布団の上で過ごすひまな時間を紛らわせるためにアプリで漫画を読むようになった。読み始めて1年。おすすめで「健康で文化的な最低限度の生活」が出てきた。つい1週間ほど前の話だ。わたしは喧嘩がきっかけで連絡が途絶えていた友人に数年ぶりに会った時のような、とても恥ずかしい気持ちになった。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。もっと話し合えばよかった。でもあの時のわたしは自分の気持ちさえ理解できていなくて、時間をかけてようやく理解できたんだ。今なら本当の友達になれるかもしれない。そんな気持ちになって、自分でも驚いたことにわくわくしながら読み始めた。あの時の感情はもう姿を消していた。わたしが今までこの目で見て話をし体温を感じてきたひとたちの生活や、見ている景色や、抱えている感情を素直に受け止めることができた。これでもっと寄り添えるだろうか。寄り添いたい。わたしはもう「健康で文化的な最低限度の生活」から逃げない。



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