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序の終わり(情景0-3)

そして、

じっと目を瞑って考えています。

何かを思い出そうとしている様です。


「あの時の事か?それとも、あっちが先か?」


ようよう重い腰を上げて綴り続ける事にした様です。



と或る時、

SNS上で

25年来の友人がかけてくれた言葉


「多分ね、幸せってのは、きっとちょっと探せばどこにでもあるんだと思うよ。」


これが発端だった様です。


同様の言葉を同じ人物から聴いたのは、20年程前だったでしょうか?

クルマの中で2人きりの時だったか、その後、夜を徹して酒を酌み交わしながらの時だったでしょうか?

互いの境遇や、その時点での「現在」を憂いて話していた最中だったでしょうか。


彼は、こう謂うのです。

「多分ね、幸せってのは、きっとちょっと探せばどこにでもあるんだと思うよ。」


其れは全く、その通りで、

でも、反論の余地の無い、その言葉の重みは理解する事も出来る、納得する事も出来るのですが、

何か

どうしても、こう、応えたくなってしまうのです。


「そんな事ぁ判ってるとも。」

「でも」

「カンタンに言ってくれるなよ」

「悩んでる俺が馬鹿みてぇじゃねぇか」

「正論だからって、清も濁も併せ持って、聖人みたいに悟れやしねぇよ」


きっと彼は笑いながら、こう謂う事でしょう。


「いや、ただ普通の人の普通の感覚だよ。」


その通りなんです。

「幸せ」なんて、

ムツカシく考える方が、どうかしているんです。


「あぁ、俺ぁ進歩の無い事、甚だしいなぁ。」

「だいたい、大前提の“普通”が理解出来ねぇんだよなぁ。」


あぁ、

友人の少し伏し目がちな笑顔が脳裏に貼り付いて離れません。


どうか、

どんな時も

どんな情勢どんな状況であっても

脳裏に貼り付いて離れない

彼の笑顔が曇らない事を。


「多分ね、幸せってのは、きっとちょっと探せばどこにでもあるんだと思うよ。」


それでは、

いよいよ、

したたかに健やかに滑らかに、

過去達に逢いに行く事としましょう。

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