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個人の意見は悪か??

最近コメンテーターが意見を述べる際、冒頭でこれはあくまで私の意見なので気楽に聞いて下さい、と言うことが散見される。これはその発言が絶対的なものではなく主義主張を強制したりするような意図がないことをへりくだって意味する他、人によっては訂正などを積極的に受け容れ議論を促進する意味もあると考えられる。しかし、そもそもなぜこのような"但し書き"をするようになったのだろうか。
個人の意見とは字義通り個人の意見であるが、これは事実と対比される。小論文指導で事実と意見は分けて書きましょうと口酸っぱく言われた経験がある人もいるだろう。ここで重要なのは事実と意見はあくまで比肩しているだけで従属関係にある訳ではないということである。すなわち事実が個人の意見よりも優れているというわけではないのだ。事実が個人の意見よりも優れているという価値判断を生み出す要因の1つとしてエビデンス至上主義が挙げられる。エビデンスが無ければ無価値。つまり価値が存在するにはエビデンスが必要不可欠というわけである。これは医学におけるEBM; Evidence-Based Medicine に端を発している。これを直訳するとエビデンス(科学的根拠)に基づいた医療と訳せるが、字義通りに受け取ってしまう人が少なくない。エビデンスとは、How to practice and teach EBM(Strausら著)やHaynes RB, Physicians' and patients' choices in evidence based practice BMJ.2002; 324:1350(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1123314/)によれば、本来は疫学的手法を主体とする研究によって得られた最良の根拠(best research evidence)と、臨床家の経験(clincal expertise)、そして患者の価値観(paciant values)を統合し、よりよい患者ケアに向けた意思決定を行うものである。決して疫学的根拠のみを事由に医療を実践することではない。例えば生命予後を良くするという研究結果が出ている治療方法があったとしても患者さんがそれを拒んでいる場合、その治療を強行するという訳にもいかないだろう。エビデンスという言葉が独り歩きした結果、本来の意味が忘れ去られてしまっているのだ。丸山眞男が「日本の思想」で指摘していた外来のものを直ぐに吸収する割にその内実を直ぐに忘れ(そもそも理解しているのか疑念が残るが)形骸化してしまう、日本の思想の特徴にほかならない。ここ最近だとSDGsや北京五輪など枚挙に暇がない。思うに現在、事実というのはエビデンス、つまり科学的事実という意味合いが強いのではないだろうか。科学的事実は統計学、さらに言えば確率論に依拠している。確率と言うと絶対的なものと考えられがちであるが実はそうではない。コインを投げたとき表が出る確率は1/2なのではなく、コインを投げ続けると表と裏が1:1に近づいていくから仮定として表と裏が出る確率をそれぞれ1/2にしましょうという取り決めに過ぎないのである。このようにマックス・ウェーバーが「職業としての学問」で指摘するように学問というのはひとつのそれ自体では肯定し得ない仮定から発展してきた。医学で言えば生命を存続することは善ということから出発している。それらが論争することを彼は神々の争いと呼んだ。今日では個人の意見は事実に屈服させられていることが多いが、その実は神々の争いなのではないかと私は考える。「それってあなたの感想ですよね?」という西村博之氏の発言には個人の意見には科学的妥当性がないという意味よりも、個人の意見は価値がないという価値判断の方が受け取られていると思う。エビデンスレベルピラミッドで見ても個人の意見は最低ランクである。しかし、科学的妥当性というのはあくまでも意見の側面の1つに過ぎないということを我々は再認識するべきである。


あとがき)
個人の意見が何に依拠しているのかを考えていたら大変だったので今回は省いています。きっと構造主義的階級闘争に行き着く気がする(笑)あとはアリストテレス「純粋理性批判」を読むと深い議論できるのかなぁとも思ったり。

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