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承認欲求と創作意欲

 猫も杓子もネットネットで他人との距離が近いのは正直あまりよろしくない。ネットの向こう側にいるのは同じ感情を持つ人間だというのを理解してない人が多すぎる。

 特に二次創作をしているとそれを強く感じる。
 評価されたのは二次作品であり自分ではないのに、他人からの評価がまるで現実世界の自分の評価であるかの如く右往左往する人を見て来た。どれだけ評価されても現実世界の自分は変わらない。もっと言えば評価されているのは原作であって自分の作品ではない。逆に評価されなくとも現実世界の自分はなんら変わらない。

 なのに誰かの評価に振り回されるのは、嫌でも見えてしまうからだ。
 ネットによって他人からの評価が。
 
 例えば毒マロなどで匿名が攻撃して来たなら迎撃も反撃も正しい措置、黙って殴られておく必要などない。正当防衛ゆえ好きなだけやればよい。毒マロ送っておきながら「晒すなんて卑怯」など御託は言うまい。もしそう考えているのならちょっと想像力足りてない子なのでネットを使うのが早すぎる。あとあまりにも他責過ぎるから自己を見詰め直す必要あります。

 それとはまた別に他人の評価を気にし過ぎている人、今から話す内容を出来るだけ理解してください。そして知ってください。
 貴方の周囲で他人からの評価に振り回されてない人がいて、その人に腹を立てる前にこれから話す内容を知ってください。

人の評価が気にならない理由

 作品への反応数に振り回されている人が多い中、ほぼ他人に振り回されてない人、書くことが楽しくて気にならない人がいるでしょう。どれだけ反応がなくても創作を辞めない人、毎日楽しく創作している人。
 その人は『他人』の評価があてにならないことを知っています。数に振り回されるのがいかに馬鹿馬鹿しいのかを知っています。

 それはその人が一度創作から離れたことがある人だからです。
 今悩んでいる貴方のようになにかに悩み、苦しみ、一度筆を折って逃げ出したことがある。二度と筆を取るまいと覚悟し、創作から離れたことがある人です。その間も悶え苦しみ、懊悩の限りを尽くした人です。創作出来ないおのれを悔やみ、無価値なおのれを呪った人です。

 そして再び筆を取った。
 だから周囲の評価や反応の多寡に振り回されないだけです。それに振り回されまた筆を折ることだけは絶対に嫌だ、そう思っています。書くこと、作れること、生み出せること、そうした喜びのが強いから評価や反応など「それはそれ」で二の次になります。

 一度離れた時に二度と戻れない覚悟をして創作から離れています。
 中には精神を病んだ人だっているでしょう、私はそうでした。
 物心付く前から創作をしていた私にとって、精神を病み筆を折った事実はなによりも恐ろしいトラウマです。なにも生み出せずなにも作れない恐怖に比べたら、他人から叩かれようが罵られようが反応がなかろうがそこまで大きな問題ではありません。反撃はするけど
 それ地雷ですと言われても「よく喋る死体だな」としか思いません。
 
 本当に苦しかった。
 本当につらかった。
 あの状況に戻るぐらいならなにをされても創作を続ける、それがあって戻って来てます。
 なのでそういう人は承認欲求は低いけれど創作意欲が底なしにあります。完全に分けて考えていて、創作はすれども公開した時点で満足してるんです。
 おのれの妄想を具現化出来た。そのことにもう満足してますから、評価だの反応だのはあれば儲けものなくて当然の世界観で生きています。とにかく書きたい、作りたい。創作したい、生み出したい。自由に想像し妄想出来る今を全力で楽しみたい。

 ある意味で悟りの極地にいます。
 初心に戻るのではなくその先にたどり着いた結果、極限の自分との戦いをしています。過去、創作から逃げたおのれをぶちのめしたい、叩き潰したい、過去には戻れないから今の自分がやりたいだけやる。
 これは過去のおのれに対する復讐で、創作から逃げたおのれへの償いです。

 さて、では何故他人からの評価が気にならないのか。

 答えは簡単。
 自分が創作を辞めても圧倒的大多数は気にもしません。多少仲良かった人なら「最近あの人見ないな」と、思い出してもらえることがあるかも知れない。それでも「見ないな」程度で詳しく探ろうとはしないでしょうし、時が経てば記憶から消えてゆきます。
 ですがたった一人だけ絶対に忘れない人がいます。
 創作を辞めたことを絶対に生涯に渡り許してくれない人がいます。

 それが自分自身です

 他人が忘れても自分が下した後悔の残る決断は、絶対に自分自身が許してくれません。人は自分が納得してないものは忘れない。納得してないのだから割り切れない。過去のことだと捨てられない。
 常に過去の自分が今の自分を責め立て、どうして逃げた、何故逃げたと追い詰めて来ます。創作を長くやって来た人であればあるほど、あれだけの時間を使って積み上げた技術を歴史を放棄するのか、なんと無駄な時間だ、お前はお前を裏切ったと自らを罵ります。

 だから他人よりも自分の評価が気になる。
 創作を辞めても他人は気にもしませんが、自分は気にする。未練の残る辞め方なら絶対に忘れない。
 なので自分が納得する手段、自分を宥める方法として創作にしがみついている。過去に逃げた自分を叩き潰すと同時、今の自分がどこまで成長出来るのかに天秤が傾くのです。

再起した側の傲慢さ

 とは言えその状況を知らない人からしたら「綺麗ごとだわ」と捉えられてもおかしくない。知らない・経験していないことは架空の話と思われるのは当然で、体験してない人に理解しろと言うのは短絡過ぎる。
 私も最初は「自分のために書けよ……」と苦悩し嘆いている方々に批判的でしたが、いや待てよ?とある時ふと考え直しました。

 私はかつて二度と創作に戻れない苦しみに精神を病んだのに、現状二度と戻れないかも知れない恐怖を抱えている人を批判するのは、思い上がりも甚だしい。
 戻って来れた、戻って来れる、それを経験しているからこそ「自分のために書け」と言えるのであり、戻って来れない・戻らない覚悟をしている方々へ戻れることを説明せずそんなのは甘えだと切り捨てるのはおかしい。悩んでいる、苦しんでいる方々は「もう書か(け)ない」の瀬戸際で苦しんでおり、これまで培ってきた知識や技術、歴史を投げ出す覚悟でいる。

 先が判らない恐怖がどれほどのものだったのか、どうして忘れた?
 あの時精神が病むほど苦しんだのを、どうして忘れ批判している?
 いつの間にそんなに偉くなった?

 再起したからだ……と頭を抱えました。
 筆を折っても再起出来る。その事実が今度は逆に、おのれの傲慢さに磨きをかける結果となったのです。

 たぶん私の話を読んでハッとする人は一定数いらっしゃると思います。主に「自分のために書けよ」主義の人は何故そう思うのかどうしてそう感じるのか深く考えた時に、「書けなかった頃の自分」と「書けるようになった自分」と、「現在創作を辞めようと苦しんでいる他人」を同列に考えている。
 それか筆を折ったことのない人だと思います。

 挫折を味わいそこから再起した人は、現在乗り越えたおのれに対する誇りと喜びで、過去に自分が佇んでいた場所に来る人に「早くその場から動け!」と無意識レベルで苛立ちを憶える。そこがどれだけ苦痛で惨痛な場所なのかを知っている分、とにかく動け、立ち止まるなと気が焦る。嘆き悲しむ人を見て過去の自分が重なって見え、黒歴史を見ているようで落ち着かない。
 だから安易に「自分のために書け」と考えてしまう。

 本当はもう書けない、もう書かないと苦しんでいる人に向ける感情と言葉は、「いずれ必ず戻って来れるから大丈夫。今は少し距離を置こう」だけでよかった。苦しみに寄り添うだけでよかった。その場所にいた過去の自分を否定したいがあまり、「判るよ」の一言が出せない。

 それこそが最も過去の自分を昇華出来てない証なのに、創作に戻れた喜びと誇りが先立って否定に走ってしまう。
 悩んでいる人にとっては反応や他人からの評価が自分は此処にいていいんだと安心出来る方法なのに、挫折から再起した側は「他人の評価に自分を委ねるな」と創作から離れても逃げても必ず戻って来れる説明をせず批判する。

 本当に酷い話だ。
 今苦しみ悩み藻掻く人を突き放し、おのれの誇りと喜びにしか眼を向けられないだなんて。

 自戒を込めて書き残して置きたいと思う。
 私は今後、創作で悩み苦しむ人に対し安易に「自分のために書け」と二度と言わない・思わないことを誓う。

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