村上春樹と「僕」
最近、村上春樹を読んでいた。言わずと知れた有名作家で、僕もつねづね読みたいと思ってはいたし、高校生くらいのときに『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』を読んだこともあった。しかしそのときはいまいちピンと来なかったし、とくべつ記憶に残ったわけでもなかった。
きっと彼の小説を読むには若すぎたのだろうと思うけれど、これを書いている今の僕が若すぎないと言い切ることもできない。ただ、高校生の頃より歳を重ねたことは確かだし、その歳で抱く感想はその歳でしか抱けないと思えば、これを書いている意味もおのずと生まれようというものだろう。
村上春樹の感想というよりは
最初にいくつか言っておくことがある。まず僕がしっかり読んだ作品は村上春樹の初期作、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の四作品だけである。つまりこの読書感想文は村上春樹の、その4作品だけに絞った僕の感想ということだ。もちろん彼の作品はたくさんあるし、作風も内容も変化し続けている。村上春樹の感想というよりは、彼の初期作の感想文である。
つぎに、僕は哲学者や思想家ではないし、評論家でもないということだ。文章を読んでもおしゃれだなくらいの感想しか持たないし、作者が意図したことの1割も汲みとれていないだろう。そんな一般人の僕の書いた感想なので、難しいことは専門の人に任せるとする。まあ庶民的な感想でいいだろう。
読みやすい言葉、難しい文章
読みやすい言葉で難しい文章を書こうとすると、これほど難儀なものはないと思う。村上春樹の作品は一貫して読みやすい言葉で書かれている。難解な熟語や横文字が出るわけでもないし、差異とか記号とか哲学的な単語が並んでいるわけでもない。しかしそれを読み解くのが難しい。不思議である。
村上春樹の文章には多くの登場人物が出てくる。そして多くの言葉を交わす。基本的には主人公の一人語りで物語が進行するが、会話の量がとても多い。その会話を通じて僕たち読者は彼らの考えや心情を推しはかるのだ。
だが困ったことに村上春樹の小説で交わされる会話はおおかた言葉足らずで、一般人の僕にはなかなか難しい。
と、ここでいい感じの難解な文章や難解な会話を引用しようとざっと読み返していたわけだが…なんと難しい文章の見つからないことか。
こんなにいろいろ書いておいてあれだが、彼の文章はとても読みやすかった。会話も整合性が取れていないわけではない。でも腰を入れて読もうとすると突然難しく見えてくる。この感覚は実際に読んで感じて頂きたい。
やっぱり不思議である。
シャレオツな人、物、空気感。
村上春樹の、とくに初期3部作はとても洒落ている。登場人物はバーでビールを飲み、家ではレコードでフォーク・ソングを聴き、女の子と寝ている。東京を舞台にしてはいるものの、アメリカンな空気感が漂う、洒落た小説である。日本の地名が出てこないのもあるだろうけれど。
むずかしいことはわからない僕だが、この空気感はとても心地よく、そしてカッコよく見える。最近になって懐かしのシティポップが流行っているけども、こういう雰囲気はやはり人を引き付けるのだろう。
このおしゃれな雰囲気を味わうだけでも、僕は村上春樹の作品を楽しめた。
ということで僕も作中に登場するこの曲を聴きながらこの文章を書いている。雰囲気出ていい感じである。レコードでも買おうかしら。
風景描写とメタフォア
作品を読んで驚くのは周囲の風景、環境の描写の細やかさである。たぶん人が店先に立っている風景を書かせるだけでも2ページは余裕で埋まるだろうなと思う。
村上春樹の文には多くの比喩が出てくる。多すぎる、と言ってしまってもいいくらいである。~のようにといった直喩だけでも1ページに2回は出てくる。その比喩のセンスが抜群に良い。
比喩と言えば詩である。たしかに彼の文章は詩的でもあるけれど、詩とは少し違う。言語化が難しいのだが、表現するときの言葉の選び方が、詩とは違った魅力を持っている。
比喩を多用すると文章が読みづらくなる。しかし彼の文章は、必要な説明は的確な言葉で、しかし表現が難しい、伝わりづらいところに比喩を持ってくる。
かっこいい。疲れをここまでおしゃれに説明できる人間が世界にどれだけいるだろう。
こういった風景や季節の描写もカッコよく、きれいに描いている。
多すぎるほどに使われる比喩が、人をひきつけ、虜にさせる村上春樹の文章の魅力なのではないかと思う。小説を読みながら、こんな表現ができるような人間になりたいなとずっと思っている。
もし読むことがあれば、ぜひこの不思議で美しい比喩も楽しんでいただきたいと、切に思う。
登場人物の孤独と自己完結性
このテーマについては自分でも何が書きたいかわかっていないので、書いていることがばらばらになるかもしれないことをまずお詫びすることとする。
村上春樹の小説に出てくる人物たちは孤独なものが多い。そして人間離れした、浮世離れした雰囲気を漂わせている。
とくに初期3部作の『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の主人公である「僕」は、本文でずっと自分のことを語っているが、何を考え、どうしたいのかがパンピーの僕には結局理解できずじまいだった。
つねに人と一歩距離を置き、そして3歩先の視点から語っているような、そんな印象だ。世界に無関心というわけではないが、彼の行動、考えに世界が与えられる影響はごくごく少ないのではないか、そんな感じがする。超然的で、事務的な人物である。
当然「僕」はさまざまな人と話をし、いろんなものに影響されて変わっていくのだが、彼の中での結論はすでに決まっていて、そこに誰がいても、何があっても変わらないような気がするのだ。
偶然そこに「鼠」や「小指のない女の子」がいたからこうなった。やれやれ。そんな人間だ。
思うに、彼は自分にふりかかること全てを受け入れるのだ。受け入れ、受け流し、何かを感じたり、感じなかったりし、変わったり、変わらなかったりする。孤独である。
「僕」は孤独である。人と出会い、別れ、そのすべてを受け入れてしまう。 自分の中で完結していて、何がしたいという欲が見えない。ないのかもしれないが。誰かに流され、自分を曲げることもない。誰かを変えようとすることもない。ただそこにあるものをただ受け入れるのみだ。
芯のある人間、というのとは少し違う。どちらかというと、自分の周りを強くて硬い壁で覆った、そんな人間である。
寂寞とした感じがするし、非人間的だとも感じるが、そういった「僕」に、形容しがたい魅力を感じるのだ。なぜかはわからない。
僕らはその場の状況に流され、周りの人間に流され、自分の思い通りにいかず、悩む。こうしたいのに。こうしてほしいのに。こんなだったら良かったのに。そんなことを考え、辛くなったり、悲しくなったりする。受け入れられないことばかりで、どうすればいいかわからなくなる。
だからこそ、周りに影響されず自分だけで完結している人物に憧れを抱き、多かれ少なかれ自らもそうでありたいと思うのだろう。たとえなにがあっても、やれやれ、と言いながらウイスキーを飲み、お気に入りのレコードをかけ、眠りにつく「僕」でありたいと願うのだ。
しかし人間は孤独では生きていけない。当然だ。孤独で十分なのであれば村上春樹の小説にほかの登場人物は必要ないだろう。人は、人と関わらなければいきていけない。
(これは生活面で、というわけではない。村上春樹の小説の舞台は都会であり、別に人と関わらなくても生活を送るのには支障がないからだ。そういう点で、村上春樹の「都市小説」はシステム化され、生きていくうえで人との関わりが必須のものでなくなった都市時代の中で、人との関係がもたらすものを描いている、のかもしれない)
人は人と関わり、自分にないものを見つけ、自分の弱さを見出し、変わってゆく。変化しないような「僕」が何を思い、人と関わっていくのかというのが、これらの小説の面白さであり、魅力であると思う。
そろそろ何が書きたいかわからなくなりつつあるのでこのへんにしておく。
おわりに
村上春樹を読もうと思ったきっかけは、東洋大学文学部哲学科教授の稲垣諭氏の『絶滅へようこそ』である。
この本の13章で村上春樹について書かれているのを読み、突然家にあった本を引っ張り出してきて読んでみたというわけである。僕の読書感想文とは比べ物にならないほど立派で含蓄に富んだ批評を書かれているのでぜひ読んでみてほしいと思う。「僕」と「官僚」、「都市」を絡めた批評はとても良かった。とても。
この本自体も難しい言葉が並んでいるわけではなく、僕でも楽しめる本だったので、機会があればぜひ。
あと、最近小説を読んで気に入ったフレーズをメモするアカウントを作ったので興味があれば。
では、また。
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