愛するということ、とは
高校生の頃、エーリッヒフロムの「愛するということ」を読んだことがある。思春期という多感な年頃でもあり、我ながら大人ぶったチョイスだったなと思うが、久々にこの本を読み始めたのでつらつらと書いていこうと思う。
「自由からの逃走」などの著書で知られるエーリッヒフロムのベストセラーである。精神分析学者のフロムは、今までの哲学や精神分析学を通した社会や大衆、ファシズムの分析やフロイトの精神分析への批判で知られる。
この本はそんなフロムが、「愛すること」はどういうことかについて論ずる本である。
高校生の頃の私は、どうすれば人を愛することができ、どうすれば愛されることができるのか、その答えを探してこの本を手に取った。その結果きちんと落胆し、ろくに内容を理解もしなかったわけだが…
落胆した理由はこの本によくある誤解のせいである。
この本についてよくある誤解は、この本には「どうすれば愛される人間になれるか」「どうすれば人を愛することができるか」という疑問に対する答えが書いてある、というものである。
残念ながらこの本にはそんな安易な答えは書いてはいない。
というかそのような答えがあるのなら世の人々は愛について悩むことはないし、こうして私たちが探す必要もないのである。
もし「愛し、愛されるためのたった3つのこと」がほしいのなら、その辺のライターが書いた自己啓発本でも読んでいればよい。それらしい言葉とイラストで満足できる本がごまんとある。
この本が書かれたのは1956年である。半世紀も近く前に書かれたこの本が未だに評価され続けているのは、フロムの愛についての分析と、それを失いつつある社会への的確な批判によってである。
もしこれが単純にモテる人間になるためのテクニック集なのであれば、書店に並んでいる自己啓発本と変わらず、人々の忘却の中に埋もれていったであろう。
この本の冒頭を引用する。
内容の要約をしようとしたが私はあまりに言葉下手でできなかったので、
この本をうまく要約したサイトから引用しよう。
愛とは技術である
そろそろ内容について語ろう。
自分がこの本を知ったきっかけはそのタイトルである。
"The art of loving" 当然このArtは芸術という意味ではなく技術という意味である。高校の時の英語の教員がArtの意味に「技術」がある話をするついでにこの本くらいは読んでおけ、と紹介していたことを覚えている。
これが意味するところは、愛とは技術であり、修練が必要であり、決して一時的な気持ちの高まりではないということだ。
フロム曰く、
フロムは序章で、上述した思い込みの原因を3つ分析している。
『第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛される という問題として捉えている。』
『第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。人びとは考えている──愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいはその人に愛されたいと思えるような相手を見つけるのはむずかしい、と。』
『第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、つまり、愛する人とともに生きるという持続的な状態とを、混同していることである。』
つまり、フロムは
・愛の問題とはいかに愛されるかではなく、いかに愛することができるか
・愛することが難しいのは相手の問題ではなく、愛する能力、技術のせいである
・恋に落ちる、その最初の体験を愛の強さと混同してはいけない
と指摘する。
愛と恋、その違い
とくに3つ目の恋に落ちることと愛の混同についてはフロムも詳しく語っており、私も好きな部分なので少し語る。
恋はいいものだ。ドキドキするし、ワクワクするし、不安で、楽しく、そして嬉しいものだ。だが、果たしてそれは相手への愛から生まれるものなのだろうか。
フロムはそれは真の愛ではないと言う。
つまり、恋に落ちるあのワクワクやドキドキは、今まで他人だった相手と、急に接近し、同じ気持ち、感情を共有することによる、一時的な感情の高まりである、と。
関係性の始まりはだれしも気持ちが高まり、楽しいものである。しかし、一度親しくなってしまえばそのドキドキはもう生まれることはない。その熱が冷めるのは時間の問題であろう。その熱をその人への愛であると勘違いするなとフロムは言う。
この続きの文が自分は大好きだ。
その恋の気持ちの高まりは決して愛などではなく、それまで味わっていた孤独の裏返しなだけである、と。
ではどうすればいいのか。熱が冷めた後、終わらないためにはやはり相手を愛することができないといけない。
そのために次の章からは愛の分析をするフロムなのであった。
資本主義と愛
先ほどは3点挙げたうちの3つ目について書いたが、2点目もについても書こう。
「愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。」について。
フロムはこれを社会における愛の在り方の変化と資本主義化で論ずる。
現代では愛と言えば即ち恋愛であり、その恋愛から結婚といった夫婦関係なりが成立する、というのが常識であった。しかし昔、1800年代~1900年代では結婚は自らの意志や恋愛とは別に、家やしきたりに基づいて決まることが多かった。
それは日本でも同様で、地域社会や家柄、ムラ社会などにより結婚が決まっていた。それこそ「お見合い婚」や「仲人」といった仕組みは今でこそ廃れつつあるが、恋愛以外の場所における婚姻のシステムとしては近年まで日本でも機能していた。
現代では自由な恋愛、自由な結婚が主流となったことは述べたが、それによって「恋愛の自由市場化」が進んでいるとフロムは指摘する。
つまり誰を選んでもいい、という環境の中で、自分を選んでもらい、誰かを選ぶために人が商品となる、ということだ。
どのような魅力があれば自分を選んでもらえるか、年収、見た目、肉体的な魅力、様々な要素はあるが、「相手から見て魅力的な自分」という商品として自らを規定し、売り出している。
現代社会において、何かを得るためにはその対価を支払う必要がある。
市場化した恋愛において、誰か魅力的な誰かを選ぶ。しかし同時に、相手にとって自分も同じくらい魅力的でなければならない、と考えるのである。
現代では自らの価値と、相手の価値の交換を無意識のうちに考え、そのうえでちょうどいい相手が見つかったときに、恋に落ちる。
このように、社会における「自分の価値」「相手の価値」を基に愛を考えてしまうのが現代の人々であり、だからこそ「釣り合ってない」というような言葉も使われるのであろう。
もちろんこれを意識して考えている人はいないだろうが、資本主義的な自由競争が常識としてはびこる現代の人間、このような価値観からは抜け出すことができない。当然ながら面白い指摘であると思う。
モテるために(これは愛されるという意味では決してない)、恋愛指南本などには様々なテクニックが書いてある。かっこよく/かわいくなる方法、おしゃれになる方法、上手に話す方法、痩せる方法…etc
ここまで読んでいればわかるだろうが、これらはあくまで恋愛市場における「商品価値」を高める方法であり、「誰かを愛する方法」ではない。
愛することと愛されることはきっと表裏一体であり、誰かを愛する能力はこのような方法では得られないし、その辺の本に載っている小手先のテクニックでは育むことは出来ない。
(ポジティブに考えようとか、相手のことを受け入れようとか、自分のことと相手のことを分けて考えようとか、お互いの価値観を~とか、世の本には様々書いてある。確かに人付き合いのアドバイスにはなるが、「誰かを愛すること」のアドバイスにはならないだろう。)
ここまでの話をまとめよう。
フロムは、愛とは技術であり、誰を愛するかの問題ではないと論ずる。
しかし現代の社会では人は商品となり、「誰を選ぶか」「どうやって選ばれるか」という、愛の対象ばかり気にするようになっている。
誰でも選べる状況ならば、人は「どのように愛するか」なんてものよりも「誰を愛するか」という、愛する対象のことばかり考え、愛そのものを顧みることがなくなったのである。
ここまでで冒頭1章のまとめというか感想である。
続きはまた書きます。
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