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芸術はどこにあるのか?(作品ではなく)聴いた人の心の中に…🎻🎶

京都・奈良EU協会
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NPO法人京都・奈良EU協会の《ランデヴDEなら》です。ヴァイオリニストと齊藤清さんと共に(Mixerの仲井も加わって)。前回は演奏者の目線で音楽について話したが今回は「聴く」ということについて話す。

演奏家が聴くのは1つは勉強のために、もう1つは楽しむために。弾きながら自分の音を聴くことも。「聴く」とは重要。こう聴かなくてはいかなきゃいけないことはないけど、前もって何かを準備できてそれが元で面白くきけるとしたらあったほうがいい。

言語の環境が変わると思考回路が変わる。今井(フランス)と齊藤(イタリア)の経験。

言葉に文法があるように音楽には「音法」がある。言語も音楽も対等に位置している文化で、そこから生まれたものだからそこに支配される、影響されるものが多い。文学作品を読むことで想像することが出来るし、Internetを通して疑似体験することが出来る。

岡田暁生著『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)』で書かれている「内なる図書館」について。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2009/06/102009.html

芸術はどこにあるか?作品にあるわけではなくて、ベートーヴェンの頭の中にあるわけではなくて、聴いた(消費した)人の心の中にある。人生のいろんな楽しいことや苦しいことや哀しいことを、記憶のSwitchをポンと押すと抽斗が開いて、その時の味や感情や肌合いを思い出す。その記憶を辿っていく装置だと思う(齊藤)。

だからこそ芸術作品は必要不可欠。単なる楽しみ、快楽のために、時間を楽しく過ごすためのものではない。クラシックの偉大な作品の場合は自分自身の姿を見ざるをえない。芸術の持つ意味、力はそういうところに本質的なものがある(齊藤)。


年齢が進むにつれ生き方、人生の底が見えてくるし、それへの自分の回答として音楽を捉えてゆきたいのか?成功した人もふらふらとした人生だけをしているのではなく、人生の中でたくさんの努力をしている実感がある(仲井)。

料理人も気楽な感じではなくて脂汗を垂れ流しながら、自分に欠けているものはここにあるって何なんだろうという切迫感を持って味わっているのではないか(齊藤)?

演奏を聴く人と弾く人とのPOSITIONの違い…音楽を楽しむということに関しては、聴く人のほうが幸せと言おうか喜びが多いのか?

聴くだけでなくて自分で音を出す。VIOLINで音を出すことのことの難しさ、演奏家の視点を体験して想像するといい。本当の意味での芸術作品との対峙が生まれる。

「芸術に生贄にされた」という思い(齊藤)。演奏家と作曲家。シューベルトやブルックナー、フランク、マーラーの例。やらざるを得ない切迫感。

宮沢賢治のこと。宮沢賢治と音楽。Van Gogh「絵で人々を救いたい」という考え。彼の一貫した生き方がいま感動の源泉になっている。芸術家として生きるのは大変…。

自分の出した音で誰かの心にちょっと光を差したり出来ることはこれほど喜ばしいことはない。聴いてくれる、受け取ってくれることにありがとうと思う(今井)。

🎻齊藤清のVIOLINと今井恵理のPIANO🎹
https://www.youtube.com/channel/UCEL97z0eCboOeSiFHrbsbnA
🎼アンダンテ カンタービレ   チャイコフスキー  Andante Cantabile  Tchaikovsky
🎼夜想曲 ハチャトリアン Nocturne  Khachaturian
🎼夢   ワーグナー Träume  Richard Wagner
🎼母の教えたまいし歌 ドヴォルザーク  Songs My Mother Taught Me  Dvořák

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