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脱・スポ根|遊んでいれば、なんでもできる!

楽しく理想を手に入れても良いんだ

僕にはいくつかの活動の軸がありますが、一つはクリエイティブディレクションやデザインといったクリエイティブ領域での活動。ディレクター、デザイナーとしてグラフィックデザイン全般、子どもの玩具や環境、ブランディングに映像編集に最近ではプロダクト開発とかとか、結構色々やってます。

大学進学を志した頃にデザインを学ぼうと思い美術系の大学を志望するも、美術大学の専攻ってとても細分化されており、全くもって自分の進べき”細い道”が選べなかった当時を思い返してみても、なるようになっているのかもしれません。

現在進めている仕事の一つに、コーチングや企業研修を提供する方のウェブサイトを制作があるんですけど、この方のポリシーがとても興味深いものでした。一般的にコーチングというとクライアントとの対話を通じて、その理想を引き出し実現までを伴走するような役割です。コーチングにおけるこの”理想の実現”は多くの場合行動量と行動力でかなえるものだそうですが、この方のアプローチでは潜在意識にあるブロック(理想の実現を阻害する都合の良い自分の存在)を外してあげることで、楽しいという感情のままに理想を実現させようというもので、これがとても共感できるものでした。

楽しければ努力を努力と感じない

これってつまり、脱・スポ根的な方向性だと思います。前述の行動の量と力で実現するというのはいわば「これだけ努力すれば理想はきっと叶う!」というもの”努力せよ、さすれば実現せし”って感じ。でも別に理想を実現するためには全く異なるアプローチがあっても良い。別に努力を否定するものではないんですが、努力=苦痛である必要はないだろうと思います。楽しければ努力は努力と感じないわけでね。

例えば…
アメリカの〇〇州で生活している青年がいるとして、旅行で一度味わった日本の江戸前寿司に感銘を受けて、自分でも寿司を握りたいと思うようになりました。彼は翌年日本に移住してそこから10年の下積みを経て、昨年アメリカに戻り晴れて自分の店を出したとさ。ってのは素晴らしい。でもこれと同じように、この青年が日本に移住せずに、自分のインスピレーションと創意工夫で〇〇州で手に入る食材で寿司を握り始めたっていいわけです。YouTubeで握り方は学んだりして。あるいは彼はインターネットを通じて日本人の友人をたくさん作って行きました。そしたらその中に寿司職人がいたので、アメリカに招いて寿司屋をオーナーとして営んでいます。というのもあり得る。

努力というと血と汗と涙の結晶(古い?)ではなくても良い。努力を努力と感じないうちに成長できるのならばその方がいいと思うわけです。

遊びこそ脱・スポ根だ

僕は現在9kidslab(ナインキッズラボ)という小学生向けのオンラインデザインスクールで「デザイン思考」のクラスを講師として担当しています。2022年の10月からなのでもうすぐ1年。ここで僕がやっていることは「体験を通じた学び」であり、それは言い換えれば遊びです。「遊び」とは努力を必要としない学びの機会、成長の機会なんだと思います。

このところ数回のクラスを通じて「オンラインでできる新しい遊びをデザインする」をテーマにみんなで試行錯誤しています。先日のクラスではコミュニケーションツールであるZOOMを理解するためにZOOMで遊んでみました。結果的にZOOMの個人のフレームを飛び出してものを受け取ったり、2つのフレームにまたがる顔を作ったりと、なかなかに盛り上がりました。ここに至るまでには、うまくいかなかったトライもありましたし、想像以上に成功したものもあるのですが、こうした経験(≒遊び)を通じてしっかりと、体験的に学べているものがあるだろうと思います。理想的にはこれを言語化できると小学生くらいならもっと良いでしょうね。ちなみに左写真では下の画面から上の画面に手を貫いて井出のものを持って帰るのですが、このトリックわかる?(簡単?)

【前回のクラスの様子】
左、下の画面の子どもが上の画面内の井出のものを取ろうとしている。
右、上下の画面を貫いて一つの顔を作る。

遊びは子どものすべて

未就学児(主に6歳未満)の子どもたちは、特に保育園に通っていればその生活のほとんどは毎日遊んでいるようなものです。特に近年は園長先生の方針にもよりますが、クラスの全員が同じことをしなくても良いという考えがたくさん出てきています。外で身体を使って遊んでいる子どももいれば、室内で静かにおもちゃで遊ぶ子どもいるでしょうし、集団で遊んでいる子どもたちがいれば、一人で遊ぶのが好きな子どもだっている。自分のやりたいことをやりたい時にやるのって、遊びの基本だと思いませんか?でもだからこそ学びにつながる。子どもたちは遊びの経験を通じてその感覚を全て使って世界を学ぼうとしているんだと思います。これは大袈裟な言い方でもなくほんとにそう思う。そしてそこに知るための努力なんて微塵もない。「やりたい」というそれだけです。目的意識すらないうちにたくさんのことを学び成長していく子どもたちを見習いたくもあります。

とはいえ別に重ねて言いますけど誰かの努力を否定するつもりは全くありません。ここで言いたかったことはどちらかといえば、努力しないで夢や理想を実現することもできるだろうということです。少なくとも努力と思わないでも…っていうニュアンスでしょうか。楽しい!っていう感情をもっと許していいんだと思います。

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