うちの叔父

私には「おっさん」と言う 叔父がいる。

 

おっさんは 父の弟だ。なぜ「おっさん」と呼ばれているかと言うと、私が小学校に入ったくらいの時、 私のうちのリフォームに来ていて、隣の部屋で遊ぶ私と友達に、「おっさんはおっさんだよ」と教えたのが始まりだ 。その時おっさんはまだ20代だったと思うが、本人はそれが気に入ってるようだった。

 おっさんは大阪に住んでいて、テキ屋だったり、大工だったり、日雇いだったり、後にはお店をやったり、不動産を貸したりもしていた。たぶん基本的には大工だと思う。リフォームが終わってからも、おっさんは電話も約束もしないでふらっとうちにやって来る。 私はおっさんが大好きでよくなついていた 。その一つが、私は新車の匂いでアレルギーを起こすので、家族行事で車に乗るのは吐き続ける苦行だったが、おっさんの車はオンボロの中古車だったので、私にだけ大人気で一緒に大阪に行ったこともある。 広い坂道では 手放し運転でキャーキャー叫び、細い通りをすごいスピードですり抜けた。おっさんは大人なのに、大人らしいところがないので、自分が面倒を見てるような気になっていた。そのうちおっさんはうちの近くに越してきて商売を始めた。しかし、人付き合いのうまい方でもなく、短気で口が悪いのに、客商売などするから、しょっちゅううちの両親が手伝っていた。子供は店の2階のおっさんの部屋で待つのを嫌がった。汚い上にエッチな本がおいてあったりするのだ。

  私は小学校半ばにして、家族や学校のこと、体調不良もあって心身ともに行き詰まっていた。家族にばれないように机の引き出しの下側を、鉛筆で真っ黒に塗りつぶし始めた。 遂に全部黒くなった頃、どういうわけか、おっさんに見つかった。おっさんはこんなことをするのは弟だろうと叱りに行こうとしたので、私は自分でやったと白状した。おっさんは悲しいでもなく、怒るでもない、何とも言えない顔をして私を見つめた。 ただそれだけで、何か助けてくれるわけでもない。そんなおっさんが好きだ。

 その頃、おっさんはお見合いをして、嘘ばかりついてうまいこと綺麗なお嫁さんを迎えることになった。親は私に、もう遊んでもらえないぞ、というのだが、私はお嫁さんと仲良くなるのを猛烈に楽しみにしていた。 その願いはかなって、美人で人懐っこい叔母は、ものすごい博多弁で「おばさん、おっさんに騙されたっちゃけん(方言なので記憶不明)」と明るく笑い、私をずいぶん可愛がってくれた。おっさんは私の前でも平気で嫁さんに甘える。かわいい従兄弟も生まれ、私はあったかいおっさんちにしょっちゅう泊まりに行った。二人は一度も嫌な顔はしなかったが、親に叱られて、私も気をきかせて行くことは減らしていった 。

  いつからか親戚付き合いもなくなっていたが、数年前に父が何度目かの入院をした時に久しぶりにおっさんに会った。白髪が増えていたけど、あんまり変わってない。病気もしたことないという。「おっさん若いな」と言うと「アホやから」と必ず答える。

 私は線維筋痛症の治療を始めていたが、寝たきりの日も多く、住まいに不便に感じており、おっさんにリフォームを頼む事にした。病気の名前も覚えられないけど、当たり前に心配してくれるおっさんじゃなかったら、とてもそんなことは考えられない体調だった。しかし、アホのおっさんだから手伝わなければならない。あれがないのこれがないの、間違えたの失敗したの、毎日波乱万丈だ。今も、おっさんの失敗作の数々として、我が家に丸ノコの跡や床の傷やフラフラ半分落ちてくる天井が残されている。小さくとも我が家、腹も立つし、しんどいのに、なぜだか笑えてきて許せてしまう。しかし、おっさんが世間でどんな迷惑をかけてるかと思うと、身内としては不安になったりもした。ともかくこのおかげで、私がいかにおっさんが好きだったか、大人になって思い返すことができた。

 おっさんはうちの猫と普通に話す。父に手伝わせ具合悪くした事を反省して二人で一緒にしょんぼりする。今どきドアの壊れた車に乗っていて、アイスばかり食べる。やっぱり口が悪くて、業者さんに感じ悪い。すぐ値切る。値切れないとなんかもらってくる。大人らしくないけど、 言い訳しない。取り繕わない。ちゃんと謝る。ずるいことや悪いことも たくさんしただろうが、おっさんは善悪ではないから、自由だ。私はそういう大人になりたかったし、そういう大人が好きだ。

おっさんは今もしっかりものの奥さんに可愛がられてる。3人の子供を育て、大切なことは当たり前に大切にしている。自由だ。

  願うならおっさんみたいな人が少しだけいる世界がいい。おかげで私も自由な大人になれたと思う。


 最後に、私が おっさんとの思い出で忘れられないものがある。

おっさんは、自分の結婚式で相手の強い希望で、新郎なのに歌を歌わねばならなくなった。 大変なことになった!というのは、父方は全員壊滅的な音痴で、歌ってるのか怒っているのかうめいているのか分からないような有様だ。リズムもなければ 音程もない。声は普段より変な声になる。法事の時などは信心深い父と姉弟が坊さんに合わせてお経を読むわけだが、音量もタイミングもおかしいから、読み始めの度、ぎょっとしてしまう。姉と私は目配せしていつも必死に笑いを堪える。

 けれどおっさんは歌わなければならない。音痴なことは本人も充分知ってるタイプの音痴であるから、小学生の私が集中指導することになった。 おっさんはお願いします、と真面目に言った。しかし ちょっと良くなってきたころ、おっさんは逃げ出してしまった。練習しなきゃと言うと逃げていく。そして式当日、うちの家族ははらはらして見守った。おっさんはいつもどおり素晴らしく下手だった。列席者は誰も驚くことも笑うこともなかった 。小学生の私には分からなかったが、今思うと、歌より前におっさんの選曲自体が、誰もをドン引きさせていたのだと思う。

「時には娼婦のように」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?