さよならだけが人生だ
2004年1月、今はなき私の最愛の劇場の最期に寄せた文章。文字通り、渾身の力と愛情を捧げて書いた。二度と書けない。そして今でも、私がいちばん好きな劇場は近鉄劇場と近鉄小劇場です。
***** ***** ***** *****
近鉄劇場・小劇場は1985年10月、映画館のあった旧近鉄開館を改装してオープンした。こけら落としの作品は、近鉄劇場がバラエティショー「ザ・シアター」。そして近鉄小劇場が劇団第七病棟「ビニールの城」である。その後約18年にわたる歴史を経て、この1月、様々な思い出が作られたこの二つの劇場が姿を消す。
昨年10月まで近鉄劇場プロデューサーを務めていた松原利巳さんは、閉鎖に関する新聞記事で「関西の才能が東京へ流出していくのを何とかして止めたい、それには東京と同じように小劇場演劇が育つ劇場環境を整備する必要があった」と語っている。目論見通り、その半年前にオープンした扇町ミュージアムスクエアも含めたこの三館は、関西における「小劇場すごろく」の中心となり、いま現在テレビや舞台で活躍している多くの演劇人が、この舞台を踏んで育っていった。それだけではなく、近鉄小劇場では関東の劇団が続々と関西進出を果たし、「いま、一番面白いもの」に触れることが出来る機会を長年にわたって提供し続けてくれていた。形として残ることはなくても、その事が与えてくれた恩恵は、あまりにも大きい。
開館の1985年を見るだけでも、第七病棟、青い鳥、劇団3OO、南河内万歳一座など小劇場にはバラエティあふれる演目が揃っている。近鉄劇場では、その年の12月夢の遊眠社が早くも登場。解散公演である「ゼンダ城の虜」まで、いや解散後もNODA MAP大阪公演の拠点と言えば近鉄劇場だった。86年2月には今をときめく新感線が「星の忍者」で小劇場初進出。翌3月には第三舞台が「デジャ・ヴュ’86」で関西初進出を果たす。初期の頃は、コンサートやトークショー、映画上映など、様々な用途で使われてきたが、88年頃から近鉄では劇団四季をはじめとするミュージカルや、商業演劇系の作品、対して小劇場では、全国の新進気鋭の作り手達が顔を見せるというカラーが明確になっていく。遊機械全自動シアター、花組芝居、プロジェクトナビ、Cカンパニープロデュース、東京乾電池、自転車キンクリート、東京サンシャインボーイズなど、数え上げればキリがない。あそこに行けば、面白いものが見られる、という思いは、私の中に殆ど信仰のように存在していた。
劇場には神が宿る、とよく言われる。近鉄劇場も例外ではなくて、写真を撮れば、映るんだよという話が、まことしやかに囁かれてもいる。人が多く集まり、そしてあれだけの「濃い」世界が生まれては消えていく場所だから、そういうこともあるのかもしれない。近鉄劇場・小劇場が最後を迎える昨年から今年にかけて、役者さん達がその「神様」にカーテンコールでありがとうとお礼を言う姿が、何度も見られた。私は、普段はそういった目に見えないものを信じないけれど、芝居には「いま、演劇の神様が降りてきてるにちがいない」と思わせるような一瞬は確かにあって、だからその「ありがとう」を聞くたび、なんとも言えない気持ちになったものだが、ただ一つ思うのは、この二つの劇場に宿った神さまは、きっと芝居を観るのがすごく好きな神さまだったんじゃないかという思いだ。思いというより妄想、と言った方がいいかもしれない。一年前OMSが閉館したとき、私はこんなにも創り手に愛された芝居小屋があったろうかと何度も思った。それはOMSが貸し館業としてではなく、ある種制作側であったということもあるのだろうが、OMSに居た神さまは、きっと、芝居を作るのがお好きだったんだろうな、とクロージングイベントに参加しながら思ったものだ。だとしたら、きっと近鉄の二つの劇場に居る神さまは、芝居を観るのがお好きだったに違いない。なぜならこんなにも観客に愛された劇場を、私は他に知らないからだ。
1988年9月10日。私は初めて、近鉄小劇場に足を踏み入れた。演目は第三舞台「天使は瞳を閉じて」。私はその年の春から友人に引っ張られ演劇部に入部していた。前年からその友人との関係で公演準備の手伝いなどをしていたのだが、その年の春の卒業公演で主力の三年生が抜け人数が激減してしまうことを理由に友人から説得されたのだった。小学校の時からずっと続けていたバスケットを辞めたこともあって、暇を持て余していた私はその説得に応じることにした。OKした理由の中には、その年の春に見せてもらった三年生の卒業公演が異様に面白かったということもあった。その時その三年生が卒業公演に選んだのは第三舞台「ハッシャ・バイ」である。舞台の最後に行われる群唱がとにかく印象的で、なんだか自分でもやってみたいと思わせられるものだったのだ。
演劇部に入ってしばらくしてから、顧問の先生から「第三舞台の公演があるがみんなで見に行かないか」というお誘いがかかった。チケットは私がとってあげるからと。正直チケット代を自分で出せるあてもなく最初は迷ったが、演劇部員の殆どみんなが行くということもあって親に頼んでチケット代を出してもらうことにした。夏から秋にかけては演劇コンクールの準備でてんてこ舞いだったので、公演日当日になるまで、そんなに楽しみで楽しみでしょうがない、という思いで待った覚えはない。ああ、そういえば今日行くんだったね、そんな感じだった。しかしさすがに当日は、土曜日の授業を終えたあとみんなで街に出かけていくということもあって、ボルテージはどんどんあがっていっていたと思う。谷町九丁目の駅から何をどうしたものか方向がわからなくなり、高校生十数人がうろうろとチケット片手に迷っている姿はさぞかし不思議なものだったのではないかと思う。
おかしなもので、もう15年も前のことだというのに、近鉄小劇場に降りる半地下の階段の前に立ち、その入り口を見下ろした光景がまだ頭の中に残っている。階段の途中で若手劇団と思しき人達がチラシをその階段を下りてくる人達に一枚一枚手渡ししていた光景も思い出す。階段を下り、劇場に入るとロビーに鴻上さんが立っていて、一気に現実味が襲ってきた。先生がまとめて買ってくれたチケットは、センターブロックG列と、下手側最前C列に分かれていた。私は、C列のチケットを取った。
あの時、私の横に座った友人は、誰だったのだろう。舞台のことはあんなにも鮮明に覚えているのに、そんなことが思い出せない。興奮を顔に出すまいとつとめながら、開演までの時間を待っていると、それまでよりも少し大きな音で音楽が流れ出した。そして、暗転。
その自分の伸ばした手の先までも見えないような暗転のあと、唐突に光が射し込んだ。見上げると舞台の上、客席とのぎりぎり境に10人の男女が立っていた。一斉に、群唱が始まる。台詞は「ハッシャバイ」の、あのラストの群唱。
その瞬間、私は恋に落ちた。
完璧な群唱、完璧な立ち姿、そして繰り広げられる夢のように楽しくて、切なくて、哀しい物語の顛末。そこに役者が生きて、動いているということの、問答無用の力。夢のようだと思った。いや、違う。そんなことを考える余裕はなかった。ただ受け取るだけで精一杯だった。見終わったあと自分が何を考えたのか、友人達とどんな話をしたのか、まったく記憶にない。ただ、劇場を出て、また目の前の階段を上がるときにこう思った。よし、よし、よし。何が「よし」なんだか自分でもわからないが、ただ背筋を伸ばして歩け、前を見ろと背中を押されている気がした。見上げた階段の先に見えた夜空も、また私の記憶の中で新しい。
それが、私と近鉄小劇場との出会いである。
・・・思えば、あの時に、最後に差し出された手と見えない握手をしたときに、私の魂のかけらはこの劇場に取られてしまったのかもしれなかった。近鉄小劇場は、贔屓目にみても、それほど見やすい劇場とは言えない。傾斜が緩すぎるきらいがあるし、何より椅子の堅さ、座りにくさは多くの人が指摘していた。だが、私は実はあの椅子を堅い、座りにくいと思ったことがない。3時間を越える芝居でも、まったく平気で座っていることができる。お尻が痛くなったことも全くない。あの劇場の椅子に座って、舞台を観ていると、面白いほど集中できた。まるで、自分の部屋にいるかのように。
私は急速に演劇に傾倒した。自分がやる方ではなく、見る方に。第三舞台を見たとき強烈に心に感じたのは、「これこそがプロだ」ということ。この人達こそがプロで、舞台の上に立つのに相応しい人だ。自分はそうじゃない、そう思った。だからどんどん見ることにしたのだ。とは言っても当時はまだ高校生だったから、お金をかけられるようになったのは大学生になってからだ。初めて新感線を見たのは近鉄小劇場「アトミック番外地」。音のでかさに舌を噛むかと思った。つか作品の熱気と狂気に魅惑させられたりあまりの熱にアテられたりした。三谷幸喜との出会いも近鉄小劇場。こんな作家がいるなんて!と舌を巻いた。自転車キンクリートの、ハイレベルで安定した作品に毎回楽しませてもらったし、第三舞台や遊眠社の作品がかかるときは家中総力挙げてチケット取りに奔走した。そしていつどんなときでも、近鉄劇場・小劇場で芝居を見終わったあとは、松原さんの笑顔が見送ってくれた。最初の頃はそれが誰だかわからなかったけれど、そういうものは不思議と自然にわかるようになるもので、絵に描いたようなロマンスグレーの松原さんをお見かけすることは、芝居を観る際のわたしの一つの楽しみでもあった。
98年から2年間、転勤で東京にいたために、この二つの劇場から遠ざかった。大阪に帰ってきて5月、近鉄劇場で「カノン」を見るために上本町に出かけると、以前地下のコンコースにあった近鉄プレイガイドがなくなっていた。そこは両劇場でかかる芝居のもっともいいチケットがあることで知られていて(第三舞台については、その窓口で買えばオリジナルチケットがもらえた)、何度もその前で徹夜をした私としては、なんとも心に穴があいたような気持ちになったものだ。その時近鉄バファローズのFC窓口だったそこは、それに馴染む間もなくワッフル屋に様変わりした。時は変わる。それは上本町の景色だけではなくて、この二つの劇場も例外でなかった。
2002年の6月に近鉄劇場・小劇場が2004年1月をもって閉館するというニュースが流れたとき、いろいろなメディアで、いろいろな人が、いろいろなことを言った。だが私の記憶に鮮明に残っているのは、閉館に対して署名運動を行うべく立ち上がったある方が、とある掲示板に書き込んだこの言葉だけだ。
「私にとってはこの二つの劇場はハードではなく、ソフトなのです」と。
劇場、という建物は芝居においてハードでしかない。その中で行われる芝居そのもの、ソフトこそが肝要だしそれによって観客の喜怒哀楽は左右される。近鉄の二つの劇場が無くなっても、作り手がいなくなるわけではない、芝居がこの世から消えて無くなるわけではない、ソフトの消失こそ我々は嘆くべきかもしれないが、劇場というハードが消失することで絶望することはない。その意見はわかる、そして私もまったくもってその通りだと思う。だが、彼女にとっては、そして私にとっても、あの劇場はソフトなのだ。あの劇場に出かけていくということそのものが、もうすでに一つの喜びなのだ。あの劇場は特別だった。私にとって特別だった。私はあの椅子に座って色んなことを学んだ。あの椅子に座って何度も劇的な体験をした。人生の半分の時間の喜びを、あの劇場と一緒に過ごした。31段の階段を下りて何度も何度もあの扉をくぐった。何度も何度もあのなだらかなスロープを昇った。目の前に広がる鮮やかな森のような近鉄劇場の緑の椅子も、ひっそりと静かに漂う海のような小劇場の青い椅子も、オレンジの絨毯、ロビーの自動販売機、無造作に置かれたチラシの数々、終演後観客を見送る松原さんの笑顔、そのすべてが私にとっては何よりも失いたくないものだった。私の魂のかけらだったのだ、そのすべてが。
近鉄劇場跡地の正式な再開発プランは、まだ発表されてはいない。閉鎖時のニュースでは、商業施設とも、マンション建設とも書かれている。どちらになっても、私にとっての上本町はすっかり変わってしまうだろう。今、近鉄劇場の白い壁には、その真裏に新しく建設されるマンションの宣伝がべったりと貼られている。駅から徒歩1分。通勤至便。市内有数の文教エリア。そんな謳い文句が、また舞い踊るのかもしれない。そこから見える新しい上本町の風景を、私は見たいとは思わないけれど。
劇場の前に立ち建物を見上げて思う。いつの日か必ず来る、ここが取り壊されてしまう日のことを。あの絨毯、緩やかなスロープ、海のような青い椅子、森のような緑の椅子。楽屋の壁に書かれているという、この劇場へのさまざまなメッセージも、あの時確かに観た物語、確かに感じた熱、役者の息づかいも、そのすべてが取り壊され、瓦礫の中に消える。
この劇場に確かにいた神とともに。
私達の心に刻まれた、甘美な舞台の記憶のほかに、残るものは何もない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?