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ある帰国子女の記録②- 大人になってみて

 前回は、日本語優位のまま日本に戻った話を書きました。今回はその続きを。

 アメリカにいた6年半、英語が嫌で嫌でたまりませんでした。それでも、成績は、優秀だったと思います。小学校6年生の最後から、日本に帰国するまで、全科目C以下をとったことはありませんでした。中学からは数学、高校からは理科のHonors(一番上のレベル)クラスにも在籍していました。自分の英語力が上がっても、学年が上がれば難易度は上がり、楽になることはありませんでしたが、睡眠時間を削っても、宿題と課題に取り組んでいました。(この時の寝不足が原因で、私の身長は小学校六年で止まっているに違いないです。)けれども、最後まで自分がクラスメイトと対等になれたと思うことはありませんでした。そして、十年生を終える頃、父親の帰任も近いこともあり、私と母、弟の三人で帰国しました。

 帰国後、編入した高校は、帰国子女として受験したものの、家から15分、可愛い制服と、アットホームな雰囲気で決めました。特に帰国子女への特別クラスなどはありませんでした。大学への進学を視野に入れていたら、もう少し真面目に学校選びをすればよかったと思ったこともありましたが、今ではこの選択でよかったと思えます。のびのびと高校生活を楽しめました。
 帰国後の授業は、古典以外は特に苦労しませんでした。数学は、アメリカの高校で終えていた単元でしたし、とにかく授業の全てが日本語で行われると言うだけで、それはもう、今までとは比べ物にならないくらい、理解に要する時間が短縮されました。母語で学べると言うことは、こんなに楽なんだ! と、驚きしかありませんでした。

 学習面ではそこまで苦労した記憶もありませんでしたが、日常面では、それなりの窮屈さを感じることがありました。私の場合は、アメリカにいる時にインターネットを介して知り合った友人たちのおかげで、学校以外に逃げ場があったことが、幸いしたのかもしれません。高校生活も、大学生活も、それなりに満喫しました。友人にも恵まれました。それでも、根無し草感、どこかに帰りたいけれど、どこへ帰ったらいいのかわからない感覚は、ずっと付きまとっていました。自分の気持ちをどのようにも表現できる言語を使って生活しているのに、どこか殻を被っているような感覚、と言うのでしょうか。自分なのに、自分じゃない。本当の自分を出すと、周りからはみ出してしまうので、一生懸命に抑え込んでいるような。楽しいこともたくさんありましたが、同時に「誰にもわかってもらえない」と言う諦めにも似た気持ちが常にありました。

 よくよく考えてみると、大学卒業の年までに、七年以上連続で一つの国で生活をしたことがありませんでした。日本での生活も、アメリカでの生活も、どちらも同じくらい「私」の一部であり、片方を失うと、もう片方が恋しくなりました。どちらの国で生活しても、それぞれに好きなところと、嫌なところがありました。どちらも選べない、どちらも選びたい、と何度も思いました。
 結局、私は二十五歳で、四回目の海を越えての引っ越しをしました。一つだけ違ったのは、この時初めて、自分の意思でアメリカに戻ることを決めたことです。自分で決めて、トランクを二つだけ抱えて、アメリカに渡りました。それからずっと、私はアメリカにいます。たまに、新しい土地で、また一から生活を築きたいな、と思うことはありますが、家族を持つと、昔ほどの切迫感はありません。ちょっとした願望程度です。

 その昔、どこにも自分の居場所がないように感じて苦しかった自分に、いつか自分で住みたい場所へ向かっていけば、自ずと居場所は見つかるよ、と言ってあげたいです。どちらかを選ばなくちゃ、ではなく、とりあえずどちらかを選んでみて、あとはまた、なるようになるんだと、行き先を決めたらいいんだと。
 自分が選んだ場所で、自分の居場所を築き上げていくことは、時には逃げ出したくなるくらい辛いこともあります。親のせいにもできません。それでも、少しずつ自分の居場所を整えていくことは、とても幸せで、楽しいことなんです。
 いまだに、自分がアメリカ人か、日本人か、というアイデンティティは、迷子になったままです。きっとこの先一生見つかることもありませんし、見つけようとすることももうないと思います。それでも、自分の居場所は作れます。だから、昔の自分のように、アイデンティティを失って迷っている帰国子女がいたら、いつか、自分で行き先を決めて、進んでいけば、アイデンティティなんて確立しなくても、居場所は作れるんだよと言ってあげたいです。望まずして、海外に連れて行かれ、たくさんの苦労をして得たものは、長い人生で、活かされる時は必ずきます。大丈夫。きっと、大丈夫。


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