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短編小説『イーゼルを開いて』第5話

 職場から電車と徒歩で片道四十五分。彼女は若い単身女性にも人気なアパートの一室に戻り、パイプベッドに倒れ込んだ。
 その拍子に「飯野 瑞希(いいの みずき」と書かれた社員証が鞄からこぼれ落ちる。内定会の時に撮影した純粋無垢な笑顔。今でも元気な自分をアピールすることは忘れないが「お仕事スイッチ」がオフになると途端に元気がなくなる。

「現実は厳しいなぁ」

 瑞季がひとり呟く。
 今の彼女の癒しは録画しておいた深夜アニメと、インターネットの友達から教わった対戦ゲーム。それに顔も知らない人たちとのチャットだ。
 瑞季は薄いメイクを落とし、作り置きのおかずを入れておいたタッパーを冷蔵庫から抜き取るとそのままレンジに入れて温める。
 帰宅時間に合わせていた炊飯器から電子音のメロディーが流れ、彼女はご飯をよそって温まったおかずを食器に移し、今日最後の宴を催す。

「ごちそうさまでした」

 手を合わせて恵みに感謝し、蛇口から水を出してそれにくぐらせ、水で満たしたアルミボウルに静かに沈めていく。
 洗い物はあとでやるとして、先ずはお風呂だな。と瑞季が背伸びをしていると、部屋に置いてあったスマートフォンが不意に通知音を発した。

「帰宅なう」

 そこには鬼島からのメッセージが入っていた。瑞季はすぐに返信しようとしたが、仲間の間では新米社会人として通っているので、多忙感を演出する。
 彼女は急いで洗い物を済ませ、逸る思いでスマートフォンに直行した。

「帰宅中なんですか、それとも完了形どっちなんですか(笑」

 すぐに「既読1」がつく。鬼島以外の二人はまだ見ていないようだ。

「家に戻って色々終わったところです」
「私も『今』帰ってきたばかりでして」

 とりとめのない会話が途切れ途切れに連なる。
 瑞季はこの間が大好きだった。
 メッセージを送る時のちょっとした緊張感。
 それに対して反応があったときの小さな幸福感。
 飯野 瑞季はそういう幸せを噛みしめる、夢を「まだ」追いかけている女性だった。

「どもどもどーも! ボクです!」

 チャットの既読が2になり、穏やかだった空気が一斉に弾みだした。ハヤトだ。

「いやー、今日もやっちゃいましたよぉ。ムカつく上司を一言論破っ。さすがだね!」
「論破って……あまり波風立てるのは感心できませんね」
「鬼島さーん。ピロゆきを見てないんですか? あのバッサバッサと正論で人を切り捨てる快感! 自信満々な相手を最後に屠るカタルシス!」
「ピロゆきさんは私、あまり好きではないです」
「おやスイさん。同年代のアナタなら分かってくれると思っていたのですが」
「でも、私も嫌な上司に絡まれていて、時々ムキになってやり返したいこともありますよ? でも、それをやっちゃったら社会的に死ぬのは自分たちの方じゃないですか」

 瑞希は口の端を歪め、思いを込めて硝子板に指を滑らせて文章を紡いでいく。

「そうですよ、ハヤトさん。上司の面子を潰すような真似は褒められたものではないです」

 瑞希に続き鬼島もハヤトの行いを咎める。

「んー、でも喧嘩売ってきたのはあっちですよ?」
「ハヤトさん……いいですか」

 鬼島の恒例である説教の前置きが投下された次の瞬間、Kが何処からか飛び出してきて「ゲームしようぜ!」と発言した。

「話の途中だったんですけど」

 ハヤトは邪魔が入ったと言わんばかりに口を尖らせた。

「まあ、細かいことは良いじゃん。丁度『エペックス・レゲネート』のフレが居なくてさあ。スイとあと誰か、やる人居ない?」

 どうやって打っているのだろうか、Kが凄まじい早さで投稿を続ける。

「私は決定済みなんですか……」
「えー、だってスイ良い声してるもの。ストリーマー向けというか」
「おおっ、それは是非聞いてみたいですねぇ!」

 Kとスイのトークに割って入るハヤト。

「それって、スマホとかで遊べます?」
「いや、ゲーム機かパソコンがないと無理ですね」
「そうですか。残念です。少し前に売ってしまいましたから。それにおじさんの声聞くのもキツイでしょうし」

 瑞季の返事に鬼島は涙を流す人の絵文字を打ち込んだ。

「鬼島さんは渋めの声っぽい」
「いやいや」

 謙遜する鬼島。

「ボクもパスですね! あ、でもボイチャだけは繋いで盛り上げましょうか?」
「じゃあスイ、一戦だけしようか」
「はい。一旦反応無くなりますね。お疲れ様です」
「ええー。行かないでくださいよぉ。男二人は寂しいですってば」

 ハヤトが後髪を引くが、瑞季は「またね」と手短にメッセージを残し、ゲーム機を起動させてKとボイスチャットと繋ぐ。

「さあ、今日もチャンピオンになっちゃうよ!」

 コントローラーを手にし、意気揚々な瑞季。
 平日の夜は更けていく。

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