短編小説『イーゼルを開いて』第11話
五月の東京の空は薄暗かった。
朝の天気予報では降水確率は午前午後ともに30%といったところで、街行く人々の手にはあまり傘が握られていない。
渋谷駅交差点を渡った先にあるシアトル系のカフェ前でその女性は人を待っていた。
彼女はオーバーサイズニットとロングスカート姿の何処にでもいそうな二十代前半の女性。通行人たちをぼーっと眺めていたが不意にショルダーバッグから折り畳み傘を取り出して展開する。
「雨なんか降ってないのに。ねえ、瑞季」
そこへカーディガンとミニスカート、ロングブーツという派手な色合いの女性が一人、隣に立ち傘で顔を隠した瑞季に言う。
「いのりさん、何をしに来たんですか」
瑞希は曇り空のような灰色の声で言う。
「今日は約束の日でしょ。あれ以来、ログは止まったままだけど、誰か来ていないかなってね」
「あれだけのことを言っておいて!」
「『解散かな』って言っただけでしょ。現にあたしはまだ居るわけだし。匂わせるようなことは言ったけど、一言も残りの人たちを切るとは言っていない。勘違いをしていたのは瑞季、あなただけよ」
「……っ」
事実を突きつけられた瑞希は押し黙るほかなかった。あの時の会話を思い返しても、いのりははっきりと「終わりにする」とは言っていなかった。からめ手を巧妙に決められた瑞季は自分の思慮の浅さと、この魔女の厭らしさに口を真一文字にして耐える。
「生きているとね。こういう人間に何人も遭うのよ。瑞季はまだまだ若いし、社会経験も浅いから理解するには時間がかかるかもしれない」
「……いのりさん。でも私、あの日の帰り道にあなたの悪口ばかりを思い浮かべてしまって」
傘をよりいっそう深く差す瑞季。
「そういう風に仕向けたのはあたし。あなたの反応は人間として真っ直ぐな証拠だけど、それでは現代で生き残れない。曲がっても、歪んでも前に進まないと」
いのりは瑞季の傘の端をゆっくりと掴み、顔を覗き見ようとする。抵抗らしい抵抗はない。
「……私、自分が分からないです」
彼女は目を伏せ、いのりと顔を合わせようとしない。
「水を差す」とはこのことをいうのだろうか。雨模様の雲たちは思い出したかのように冷たい雨粒を地上目掛けて吐き出しはじめる。
瑞希はいのりに背を向けて「今は、ごめんなさい。私は未熟です。あなたの横に立てるような人間じゃない」と零した。
そして彼女は目線を上げていのりに向き直った。
「だから、今は別の道を行きましょう。お互いのために」
瑞希の目は僅かに潤んでいた。それは決別と後悔と、懺悔を掻き混ぜても澄んだ色。
「あなたがそう望むのなら」
いのりも手にしていた傘を開き、瑞季を一度だけ見やって目線を隠した。
雨音が強くなる。
彼女たちはあの時のように互いにすれ違う。
「いのりさん、またどこかで」
「瑞季、楽しかったよ」
今度は言葉だけを残して。
囁きが通じたのだろうか。二人はほんの少しだけ口角を上げてそれぞれの道を行った。
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