見出し画像

短編小説『フィラメント』第9話

 だが、その決意も数十分と持たなかった。
 由衣は辛うじて片付いた領域にどさりと崩れ落ち「やっぱり絵以外はダメダメだあ……」とぼやいて愛機を手繰り寄せる。
 スリープを解除し、ペンを硝子板の上に走らせる。この瞬間こそ自分の存在証明なのだと言わんばかりに。

「あれっ」

 由衣はそう思っていたはずなのに思い通りの線が引けず、何度もやり直す。
 過去の自分の動きをトレースして、完璧な完成図をイメージして。
 手を動かす度に擦り減っていった。それは夕暮れで佇んでいた彼女の心に夜の帳を下ろし、やがて意識は闇に飲まれて何も考えられなくなる。
 ヤケになって投げ捨てた布製のグローブが夢の残骸の上で軽やかに弾んでいた。

 由衣は絵が描けなくなっていた。
 それどころか身体中に鉛を荒縄で縛り付けたように重たく、起き上がることができない。
 頭は鈍く痛み、目の前が薄い暗幕で覆われているのではないかというような錯覚に陥る。
 彼女はその日、欠かすことのなかったイラストのアップロードを諦め、その翌日には学校を休んだ。
 通りの通行人たちの談笑が窓を挟んで室内に響いてくる。
 今の彼女には自分を嘲笑っているように聞こえてきつく目を閉じた。
 そして思い出したかのように時々タブレットを取り出しては数秒固まって仕舞い、SNS上で病んでる自分可哀そう! な呟きをしそうになってはすんでのところで踏み止まる。

「おかしい……何か『ヘン』だ、わたし……」

 彼女はいつしか入浴や食事を摂るのも億劫になり、不規則な生活が心身を徐々に荒廃させていった。

「由衣、入るわよ」

 そんな生活がしばらくの間続き、痺れを切らせた由衣の母親が薄暗い領域へと足を踏み入れる。
 いつか由衣自身で掃除をするので絶対に立ち入るなと強く言った聖域。

「最近どうしたの?」

 木製のベッドフレームを軋ませて母親が昼間から寝転がる由衣の傍に寄り添う。
 彼女がいつも強く当たっていたというのに、母親はいつでも穏和な態度を崩さなかった。
 それに甘えたくなるが、遅れてやってきた反抗期がそれを拒む。

 以前ならそこで終わるはずだった。
 だが、あの時のクラスメイトたちの言葉が、その表情が。自分の作品を評価してくれた名も知らないインターネットの人々を想像して彼女は自分を改め、自身へと向き直る。
 このままではダメになってしまう。由衣は藁をも掴む思いで差し伸べられた手を掴む。

「お母さん、あのね……」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?