日曜日。
千歳は榛を誘って映画を見に来たのだった。
先日物部に言われた通り、今日は映画だ。
楽しみかどうかといわれると、非常に楽しみだ。
千歳は普段映画を映画館で見ない。
お金の無駄だと思ってサブスク以外で映像を視聴しないのだ。
というか、映画を見たくても物部からの仕事や学校のことで忙しくゆっくり映画を見る時間はとれない。
だから今日は、生まれて初めての映画だったりする。
どんな映画を見るかは榛に任せた。
初めて入る千歳が選ぶよりはいいだろうと感じたからだ。
榛が選んだのは、恋愛映画だった。
いかにも榛が好きそうな内容だなあ、と千歳は思ったが、まあ、それが普通の年頃の女の子が選びそうなものだよな、と納得した。
そういえば、榛は知らない土地である映画館までたどり着くことができないのか、仮想現実で休日に遊ぼうと提案したとき、自宅まで迎えに来てほしいと言っていた。
だから千歳は榛の家まで迎えに行って、それから映画館まで案内した。
千歳も映画館まで行くのは初めてだったから地図アプリを頼りながらの移動だったが、どうやら榛にはこれができないらしい。
知的障碍というのは大変だなあ、と千歳は思ったが、こうして人に案内をお願いできるのだから、弱点は克服しているのだろう。
千歳
「いいのかい? 自宅まで迎えに来させて、家の場所がわかっちゃったじゃないか。これからどこへ連れていかれるかもわからないのに、俺をそこまで信頼しちゃっていいの?」
榛
「いいんじゃないでしょうか。千歳君は悪い人じゃないと思うので」
悪い人なんだけどな、と千歳は思った。
まあ確かに、人を傷つけるなどの犯行には手を染めていない。
が、どうしてだろうな、物部という裏社会の住人と話をした後は自然と榛という純粋な人と出かけてみたかった。
千歳
「俺はそんなにいい人じゃないぞー」
榛
「そうですか? 千歳君はいい人です」
そうだな、普段からそう思われるように振る舞っている。
別に心にやましいものがあるからではないが、なるべくただのいい人にはなろうとしている。
が、既に心清らかではない。
映画館にはいると、意外と空間は広かった。
客入りはまばらだったが、それが逆に榛との距離の近さが強調されるようでよかった。
まるで二人きりだった。
映画館の椅子はふかふかで長時間座っても疲れないように設計されている。
学校の小さな机と椅子とは大違いだ。
榛には人を疑うという能力がない。
そういう心の純粋なヒロインが心に闇を抱えてしまった人に近づいていく、そういう映画だった。
映画のシナリオは、でたらめだった。
話として整合性は取れていないように思う。
変なタイミングで登場人物が現れるし、意味不明な段階で新情報が出てくる。
ストーリーとして全然美しくない。
でも、それは自分の人生もそうだよな、これがリアルな人生だ、とそう思った。
だから、デタラメな主人公の人生に深く共感してしまう。
まあ、とはいえB級映画であることに変わりはない。
だから、それに共感している千歳も所詮B級の人生を送っているということだろう。
くだらない毎日、でたらめな日常。
でも、それが愛おしくてたまらない。
確か、特別支援クラスに送られた日、千歳はどうして欠陥を抱えた人たちと一緒に勉強しなくちゃいけないんだろうかと思ったが、それは間違いだった。
今は、このくだらない日常が終わらないことを心の底から願っている。
篝を守ったのもそう思ったからだし、なんだろうな、なんだかんだ千歳はこの毎日を楽しんでいる。
だから、デタラメなシナリオがハッピーエンドを迎えたとき、それなりに感動できた。
終わりよければ全てよしという言葉はこういうときに使うんだな。
映画館を出るとき、千歳はふと後ろを振り返った。
が、何も感じなかった。
あの映画は自分たちの日常をありのままに表しているようで、非現実感はなかったのだ。
だから、振り返るのではなく、前を向くべきなんだろうな。
榛
「千歳君、どうしたの?」
千歳
「別に、映画館が名残惜しいなって、そう思いたかっただけ。だけど、今日の映画はそういう感じがしなかったね」
榛
「えっと、難しくてよくわかんないです」
千歳
「そっか」
榛
「でも、面白かったですね」
千歳
「そうだね、面白かったね」
榛
「千歳君は楽しかった?」
千歳
「そうだね、楽しかったよ。楽しかったというか、自分の鏡を見ているようで、他人事には見えなかったかな」
榛
「うーん、よくわかんない」
千歳
「そっか」
榛に話をしても、こういう回答が返ってくるだけなのだろうな。
知的障碍者だから心が純粋と思ってもみたが、純粋でいるのは綺麗で危険なことなのだな、そう思った。
それから、二人は公園に入った。
篝と一緒だったら喫茶店だったが、榛とは公園だった。
公園の芝生に寝そべり、二人で空を見上げた。
空は青かった、当たり前だが。
千歳
「空、青いね」
榛
「そうだね」
千歳
「空ってどうして青いのかな?」
榛
「わかりません」
千歳
「空が青いのは空気の色だよ。空気の色は青なんだ。だから、空は青いんだよ」
榛
「そうなんですか。空が青いのは空気が青いから、ふふふ」
宇宙から見た地球が青いのは空気が青いから、と付け加えようとしたが、千歳は躊躇った。
榛にこの話をして通じるかどうかわからなかったからだ。
そして、何を話したらいいのかわからなくなった。
知能の差が開いている相手にどんな話をしたらいいのかわからない。
空が青い、その話だけで終わってしまいそうだった。
映画の感想でも聞いてみたかったが、面白かった以外の答えは返ってこないだろう。
会話が、本当に難しい。
千歳
「今日の映画、どうだった?」
結局千歳はその話題に帰結した。
榛
「面白かったです」
千歳
「そっか」
榛はただそれだけを答えた。
ただ空を眺めていると、心が落ち着く。
映画の内容はでたらめだったが、それでも榛は面白いと感じたようだった。
榛の感性もでたらめなんだな、と感じる。
が、それは千歳の目が肥えているからであり、本来なら榛のように面白がれるのが一番いいのだろうな。
ネットを見るとアニメの批判や作画への文句や解説が多いのだが、ただ楽しいと思えることがどれだけ恵まれているのか、少し考えればわかりそうなものだ。
大人になると失うものは、やはりある。
おかしいな、千歳はまだ子供のはずなのだが、早熟なのか大人の目線でものを考えるようになっている。
結局、榛との会話は弾まなかった。
でも、どうしてだろうな、榛はずっと笑顔のままだった。
夕日が暮れて今日は帰る時間になった。
家に帰る道が分からないため、榛を家まで送り届けることになった。
家に帰るのにも介護が必要だなんて、かわいいやつめ。
帰路への道での会話は以下の通り。
千歳
「学校は楽しい?」
榛
「えっと、まだ緊張しちゃうときがあります」
千歳
「そっか」
榛
「千歳君は慣れましたか?」
千歳
「慣れたよ。どういう人にどう話せばいいのかとかわかってきたし、これからの1年間、ずっとこの調子なのはわかったね」
榛
「千歳君は、優しい人だと思います」
千歳
「どうもありがとう」
榛
「私は、優しい人じゃないと友達になってくれないですから」
千歳
「そうかもね」
千歳にはわからなかった。
現実には、どの程度優しい人が存在するのか。
帰り路緊張しながら話す榛が時折見せる笑顔は素敵だが、笑顔だけでどこまで生きられるのか、千歳にはわからない。
だがな、世間にはアイドルやら芸人などの人気商売のような仕事もあるわけで、笑顔は売り物になるんだよということを千歳は知らない。
榛は全然大丈夫だと思うのだが。
千歳
「今日は楽しかった?」
榛
「楽しかったです」
どうやら楽しかったらしい。
映画を見て公園で空を眺めて。
ただそれだけで楽しかったようだ。
建前ではなさそうだな、と思った。
千歳
「うん、ありがとう。俺も楽しかったよ」
千歳は本心からそういうのだった。
久しぶりだったな、本心から楽しいと感じたのは。
こういう時間が毎日続けばいいのだが、と思って千歳は自宅に帰った。
自宅に戻るとポストを確認した。
中には次の仕事の指示書が入っていた。
内容は、新しくできた組織の調査を命じるものだった。
どうやら千歳が働いている事務所以外に別の事務所が設立されたようで、それに探りを入れろとのことだった。
まだ情報収集の段階だが、正体が不明である以上警戒する必要は一定数あり、可能であれば協力関係を結び、難しい場合は不可侵を決め込む。
横浜で起きたテロといい、過激なことをする組織というのも一定数存在するので新しい組織は警戒するに越したことはない。
千歳は過激派組織ではないことを祈るばかりだった。
榛との楽しい時間は長続きしなかった。
千歳は仮想現実に降り立って、組織の情報を集めるのだった。
意外にもその組織は普通の会社組織だった。
ネット上で普通に見かけることができ、求人広告も複数掲載していて、最近は新しく始まった法律に則り中学生に簡単な仕事を任せているまっとうな企業だった。
監査法人からの記録も堂々と公開しており、多少の不祥事は起こしていることは認められるものの許容範囲内、実にクリーンな大企業だった。
しかし、裏社会と繋がりのある物部さんが確実に新しい組織が誕生していると言っているのだ。
こんなフロント企業が何か悪いことをするのだろうか?
まあ、大きな家には大きな風が吹くというように、大きい会社は一枚岩ではない。
そもそも一枚岩の組織なんてこの世に存在しないのだから、内部で何かもめているのだろう。
とはいえ、内部に入ってまで調査する権限は千歳にはない。
遠くから眺めて出方をうかがう程度のことしかできなかった。
しばらく経過を観察する必要はあるだろう。
何事も根気が必要だ。
現実世界に戻ると、今日の夕飯を食べるために食卓へ向かうのだった。
相変わらずメニューはスーパーのお弁当だな。
まあ、金が多々あるのだからスーパーの弁当を買っても破産しないのだ。
千歳の家のご飯が意外と豪華なのはこういう理由からだ。
百々
「今日、はじめてお仕事だったよ」
千歳
「ふーん、どうだった?」
百々
「いろいろと勉強させてもらえてる。社会の仕組みとか、どういう人たちが国を動かしているのかとか」
千歳
「ふーん、面白そうじゃない」
百々
「しばらくはお仕事じゃなくてお勉強しながらお金をもらう感じ」
千歳
「それは素晴らしいじゃないっか。勉強させてもらってお金がもらえるなんて、お兄ちゃんからしてみたら天国みたいな環境だよ」
百々
「それってすごいことなの?」
千歳
「すごいと思う。百々は恵まれてるね」
百々
「やった」
百々は100万点の笑顔で笑った。
仕事で成果を出せれば大人が褒めてくれるし、それで百々の自己肯定感も上がるだろうと千歳は勝手に思った。
百々
「お兄ちゃんの仕事は順調?」
千歳
「順調かな。表も裏も。表はクラスメイトの面々と仲良くやれてるし、裏のほうは多少トラブルが起きるけどみんないい人だから何とか回ってる」
百々
「そっか」
千歳
「百々の周りの人もいい人だといいね。世の中は思ったよりも人の善意で回っているものだから、多少はやらかしても大丈夫だよ」
百々
「そっか」
千歳
「普段から愛嬌を大切にしてれば、少しくらい遅刻しても平気だし、実際問題、勤務態度がいい働く人は遅刻しても案外怒られないよ」
そんなことを教えるなよと言いたいところだが、現実問題連絡さえすれば遅刻しても多少は見逃してもらえるのが大人の現実だ。
たまに遅刻するがそれ以外の部分で優秀なら即解雇ということはない。
千歳
「まあ、次第に慣れていけばいいさ。百々は人から愛されるタイプだと思うから、多少は失敗しても平気」
百々
「なんだか、私が仕事で失敗しちゃいそうなのを見越していってるよね、それ」
千歳
「仕事で失敗なんて誰だってやるからわかるんだよ。俺でも失敗してる」
百々
「うーん、それもそっか。納得。猿も木から落ちるからね」
千歳
「そんなわけで、ごちそうさま。今夜はもう寝るよ、明日から通学と仕事があるからね。ゆっくり休もうかな」
百々
「うん、お休み」
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