短編小説『イーゼルを開いて』第9話
いのりと瑞季は食事が美味いと評判の居酒屋で呑んでいた。
「この前のアレさ、スイはどう思う?」
酔っているのか、胸元を大きくはだけたいのりが問う。彼女は皿が乱雑に並べられた机からロックグラスを摘まみ取り、カランカランと小気味の良い音を奏でている。
「ハヤトさんの件ですか。あれはどう考えても彼が悪いと思います」
瑞希は憮然とした様子で炭酸の抜けた「とりあえず生」をグイッと飲み干し、顔を赤くして返す。
「そうよねえ。ま、同じ考えで口に出さなかっただけのあたしも同類だけど」
「いのりさんは悪くないです!」
いのりは煌びやかな時代を氷の中に夢想し「そうは言ってくれるけどね」と高濃度アルコールで喉を焼いて口を開く。
「あれ以来、空気が気まずくなって鬼島さんの発言を最後にチャットは止まってる。まあ、何か言えた雰囲気じゃないしね。このまま解散かな」
言葉とは裏腹に、いのりの表情には影一つ見えない。
「でも、折角仲良くなれたのに……」
「もうどうこう言えないでしょアレは」
空のジョッキを手にしたまま消沈する瑞季。彼女の狭い肩を平手でポンポンと叩き「ま、もう忘れてさぁ」と笑ってみせるいのり。
「二人で新しい出会いでも探そうよ。かわりの人なんて沢山居るわけだし」
悪びれない様子のいのりを瑞季は目を細めて見つめる。
「……いのりさんは、一度うまくいかなかったからと鬼島さんやハヤトさんを見捨てるんですか」
感情を押し殺した瑞季の声。
「他人なんてさ」
それを察してか、察せずにいたのか。いのりは自らの内に溜まったものを撒き散らすかのように口早に語る。
「この日本で一億以上。ここ東京だけでも一千万も居るんだよ。少しでも合わなかったらサヨナラ。それでいいじゃない」
「ちょっといのりさんのこと、見損ないました。そんなことを言う人だったなんて」
瑞希は視線を落とし、手をぎゅっと握りしめる。その顔には明らかに落胆の色が見えた。
いのりはそんな彼女を前にしても冷静なままアルコールで喉を洗い「怒った? でもね」と言葉を続ける。
「今言ったことは本心よ。いい、スイ。あんたはまだ若いから分からないと思うけど、人生ってのは取捨選択の連続なの。何を残し、何を捨てるのか――」
いのりは怒れる瑞季のなかに、かつての自分を見ていた。
夢を追って上京した彼女。
長かった下積み時代。
栄光と挫折、裏切り……そして人間不信。
信じたから傷付いた。
信じていたから裏切られた。
いのりは瑞季にそういう思いをしてほしくはない。その一心で鈍る声帯に酒を絡ませ、老婆心に任せて発言をする。
「……だったら」
俯いていた瑞季が熱にうなされているような顔でいのりを静かに睨みつけた。
「私がいのりさんを『切る』と言ったら、どうしますか」
「スイはそんなことは言わない。いいえ、言えない。だって、あたしたちはお互いに必要としているじゃない?」
瑞希の目の前には歳を積み重ねて擦れた大人が座っていた。青々しい彼女からすれば魔女ともいえる様相で。
「……」
瑞希は押し黙るほかなかった。
会社に居場所はない。
高校・専門学校時代の友人たちはそれぞれ多忙そうで禄に連絡が取れない。
そんな飯野 瑞希の居場所はインターネットだけだった。文字と、声だけのやり取りだけがそこに居る理由だった。
その中でもいのりの存在は大きい。
年上で余裕があって、何でも相談に乗ってくれる頼れる姉貴分。
「ね? あたしたちは繋がってしまった。一旦繋がった縁は中々解けないのよ」
いのりは薄まったロックグラスの中身を飲み干し、結露したそれを机へ静かに置く。
「二人は。他の二人は……」
「何度も言わせないで。男なんて消耗品。放っておいても次から次に湧いて出てくるから」
いのりは静かに、だが極めて強い言葉で言い放つ。
暫しの静寂。
他の客たちの楽しそうな笑い声の中、いのりは瑞季を見つめ、瑞季はその視線から逃れるように俯いていた。
「……しばらく時間をください。いのりさんが私の友人として相応しいか」
「あなたは戻ってくる。絶対にね」
いのりは伏せられた伝票を取り、立ち上がると瑞季に振り返ることなく、店から去って行った。
「私は……」
活気溢れる店内で、瑞季だけが下を向いていた。
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