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 金曜日の放課後、仕事の時間。

 千歳は仮想現実に降り立って仕事をして、そうして榛と話をするのだった。

 
「それじゃあ、明日はよろしくお願いします」

 千歳
「うん、それじゃあ、よろしく」

 そう言って、榛はログアウトした。

 千歳も続いてログアウトしようとしたが、梓がこっちを見ていた。

 何か言いたいようなのは一目瞭然だった。

 無視するのもあれだし、千歳は話を聞くことにした。

 千歳
「どうしたんだい?」

 
「明日榛さんの手伝いに行くんだ」

 千歳
「そうだね、困ってるみたいだし、ほかに頼れる人もいないみたいだから」

 
「うらやましいなあ。私も知的障碍とかそういうのがあれば親から逃げられるのに」

 千歳
「なんだい? 家族関係で苦労してるの?」

 
「前にも話さなかったっけ? 私、親ガチャを盛大に外してるんだよね」

 千歳
「ああ、その話は覚えてる。両親がうるさいみたいだね」

 
「そうなんだよね。だから榛さんがうらやましい」

 千歳
「俺は引っ越しの話しかされてないけどね。あと、榛さんの家の位置はわかるから向かえばいいけど、いったい何がそんなに羨ましいんだい?」

 
「なんでもありませーん。それじゃあ明日は楽しんでおいでねー」

 梓は若干嫌味な感じだった。

 妬み、そういう感情が見え隠れする。

 いや、それほど隠れてはいないか。

 なぜ引っ越しをするだけなのに妬むのやら。

 それも榛に直接ではなく千歳にその感情を向けている。

 まあ、マイナスの感情を榛に直接向けるならそれはそれで大問題だが、どうしてかな、人間とはイライラしたときに誰かを攻撃してしまうものだ。

 今回はその矛先が千歳に向いただけ。

 八つ当たり以上のものではないと思うのだが。


 次の日になった。

 土曜日の朝、千歳は電車に乗って榛の家に向かった。

 榛の家はとても小さく、家族を呼んでみたが、母親しかいなかった。

 父親のほうは忙しいのだろうか?

 榛とあいさつをすると早速荷物をトラックの荷台に積み込んだ。

 トラックを運転するのは引っ越し業者の人ではなく、どこかの介護施設の職員だった。

 榛の荷物の量は結構な量で、キャラクターグッズの数がすさまじかった。

 欲望に正直なんだろな、と千歳は思った。

 それらをすべてトラックの荷台に積めると、千歳は榛と一緒に電車で目的地に向かうのだった。

 千歳
「引っ越し先、どこなの?」

 
「秘密だよ」

 千歳
「でも俺はこうして同席してるから、ばれちゃうよ。席を外したほうがいい?」

 
「大丈夫」

 千歳はトラックの運転手のことを思い出した。

 どこかの介護施設の職員。

 そして榛は知的障碍者。

 この二つの符号が意味することは。

 なるほどな、榛はこれから施設で生活することになるのか。

 親から離れて知的障碍者の施設で生活する、そういうことを意味している。

 これが一体何を意味しているのか、千歳には何となくわかった。

 うまく表現できないが、榛の両親は榛を養いきれなくなったのだろう。


 そうしてたどり着いたのは、知的障碍者の施設ではなく、病院の隣に設けられているよくわからない建物だった。

 千歳
「ここ、どういうところなの?」

 
「一人暮らしの練習をする場所です」

 千歳
「へー」

 千歳は職員に案内されて建物の中へと通された。

 建物の中にはそれぞれ個室と、お風呂、洗濯機、調理場、それぞれ生活に必要なものがそろえられた空間があった。

 どうやら榛はこれからここで生活するらしかった。

 二人は荷物を部屋に運び込むと、千歳は部屋から追い出された。

 どうやら内装は自分で凝るようだった。

 千歳は職員と話をすることになった。

 職員
「あなたが千歳君ですね」

 千歳
「そうですが、何か?」

 職員
「榛さん、あなたを見てここで生活したいと希望したんですよ」

 千歳
「そうですか」

 職員
「千歳君は昔から一人暮らしみたいじゃないですか。だから、榛さんも一人で暮らしていく練習がしたいと希望しまして、こうしてこの施設にやってきました。榛さんが自立に向けて一歩踏み出せたのはあなたのおかげです。ありがとう」

 千歳は思わぬところで感謝された。

 別に普段から普通に生活しているだけなんだけどな。

 確かにな、千歳には普通に感じられるかもしれないが、一人暮らしのハードルは意外と高い。

 千歳は百々の面倒を見ながらなのでさらに大変だが、榛からしてみたら憧れの対象だったのだろう。

 職員
「榛さんの背中を押してくれてありがとう」

 千歳
「どういたしまして」

 別に何もしていないのに感謝されるというのは千歳の慣れたことではない。

 そうしてこの施設の職員との話が続いている中で、榛が部屋の整理を終えたのか話に入ってくる。

 
「千歳君、私、千歳君のおかげで頑張ろうって思えたよ、ありがとうね」

 千歳
「そっか、どういたしまして」

 違うだろ、榛は榛で勝手に自分で一歩踏み出したんだよ、よかったな、と千歳は思った。

 だがそれは表情に出さず、あくまでも心の中にしまっておいた。

 それから、梓がどうして榛に嫉妬していたのか、分かったような気がした。

 榛のような人にはこうして一人暮らしの練習をする場が与えられ、梓くらいの病気の人にはこういう場が提供されない。

 梓は家族との関係性で悩んでいたが、なるほどな、家族と離れられるのはうらやましいと感じざるを得ないだろう。

 千歳は榛と別れて、帰路に就こうとしたが、梓の心境が心配になって一度連絡を入れてみるのだった。

 今榛の引っ越し作業を終えたよ、と。

 そうしたらすぐに返信が返ってきた。

 どうやら、これから会いたいらしい。

 千歳と梓はお互いの位置を共有してちょうどいい待ち合わせ場所を見つけて、そこで待ち合わせた。

 やってきた梓は少しおしゃれをしていた。

 千歳
「どうしたの、そんなにおしゃれしちゃって」

 
「別に、なんでもいいじゃん」

 確かに、なんでもいい。

 どんな服装をするかは梓の自由だし、別にここは制服を着てくる学校じゃない。

 
「そんなことよりさ、どっか遊びに行こうよ」

 千歳
「ふーん、どこへ?」

 
「どこへでも、どこか連れて行ってよ」

 千歳
「女の子と出かける場所なんて知らないけどな。例えば、そうだな、公園とか」

 
「それいいね、おしゃべりできるね。でも、私はもっと素敵なところ知ってるよ?」

 千歳
「へー、例えばどういうところ? 遊園地とか?」

 
「違うんだなー、教えてほしい?」

 千歳
「教えてくれると助かる。勉強以外のことはわからないからね。教えてもらうしかないよ」

 
「水族館でーす」

 千歳
「へー、素敵だね」

 
「千歳君は水族館に行ったことある?」

 千歳
「ないよ。予想してるくせに」

 
「仕方ないか。千歳君は勉強と学校でやる運動しか取り柄がないからね。あ、あとお仕事か」

 千歳
「その通りですよ、ほんと」

 
「なんだか、千歳君は人生を損してるよ」

 千歳
「そうかな?」

 そう言って二人は近くの室内型水族館に向かうのだった。

 歩いている途中、梓は千歳に説法をするのだった。

 
「私は遊んだりするのが好き。友達と他愛のない話をしたり一緒に遊びに行ったりするのが好き。とにかく楽しいのが好き。でも千歳君はそういう人じゃないみたいだね」

 千歳
「そうかもね。いつも何かに突き動かされているから。そういう身からしてみたら、梓さんみたいな気ままな人はうらやましいよ」

 
「私の両親は、毎日忙しそうに仕事してる。だから私にも遊んでばっかりじゃなくて早く立派な大人になりなさいって言ってくる。それがうるさいんだよね」

 千歳
「そうかな? 俺は早く大人になりたいけどね」

 
「千歳君は、そう思うだろうね。というか、もう立派な大人だと思うよ。私なんかより精神年齢ずっと上だと思う。だけど」

 千歳
「だけど、なんだい?」

 
「私は、まだまだ子供のままでいたいな。というか、一生子供でいたい。本当だったら仕事なんて始めたくなかったな」

 千歳
「まあ、そういう人もいるだろうね」

 これを言うとなんだが、最近の若い人は成長が早い。

 早すぎて子供の気持ちを体験できない人は多い。

 子供でいる時間も、所詮は無駄な時間だとスキップしてさっさと大人になる子供が圧倒的多数だ。

 千歳もそのうちの一人。

 将来なりたいものは明確ではないが、内心はとっくに大人で梓とは精神世界が違う。

 しかし梓は、成長することを拒んでいた。

 子供でいる時間を大切にしたいようだった。

 今の日本社会は、子供が子供のままでいることを許したりはしない。

 千歳はそれを息苦しいとは感じていないが、梓は息の詰まる思いなのだろう。

 というか、榛は今日、成長の階段を一歩上った。

 でも梓は成長の階段を上がらなかった。

 この差はいったいなぜ生まれるのだろう?

 千歳は先生の言葉を思い出す。

 りんごという言葉を使っても、思い浮かべるのはそれぞれ別のりんごだと。

 そうか、榛と梓には明確な差が存在しているんだ。

 それがこうして成長スピードとして表れているんだ。

 確かに榛は知的障碍を持った人間だが、一日一段階段を上って行こうというやる気がある。

 しかし、梓は今のままでもいいやと立ち止まっている。

 どちらが人として優れているとか、そういう話ではない。

 ただ、二人は違う人間なんだ。

 千歳には何となく人生の正解のようなものがあるのではないかと心のどこかで思っていたが、それは存在しないんだな、と思った。

 テストの答えはカンニングすれば正解できてしまうが、人生は一人一人に配られた問題用紙と回答用紙が違う。

 カンニングしたって意味がない。

 
「水族館、この建物の中だよ」

 千歳が思索にふけっていると、もう目的地に到着したらしい。

 このビルの一角に水族館が存在するらしい。

 千歳はビルに入り、エレベーターを上がって目的地に入った。

 確かにそこには水族館があり、建物の中は大量の水槽が設置されていた。

 というか、人が歩くスペースよりも水槽のほうが広く、千歳は魚に飼われているのは自分たちなのではないかと錯覚してしまうのだった。

 ともあれ、二人は魚を見て回るのだった。

 魚なんて動画サイトかすし屋でしか見たことがない千歳には新鮮な風景だった。

 
「きれいだね」

 千歳
「そうだね」

 本当は目の前の光景に違和感しかないのだが、千歳はそう言った。

 現代においてもこういう風景が存在するんだな、と思うと、やっぱり千歳は自分が変な人間なのだな、と感じずにはいられなかった。

 梓の日常風景に違和感を覚える、それが千歳の異世界人たる理由だ。

 水族館も、ただのお金の無駄遣いにしか見えてこない。

 
「千歳君の好きな熱帯魚って例えばどんなの?」

 千歳
「ごめん、熱帯魚はわからないや」

 
「そっか」

 千歳
「水生生物の生態系は学校であんまり習わないからなあ。黒潮に魚類が豊富ということくらいしか」

 
「あははは、やっぱりそういうところは千歳君だね。ねえ、今度、学校さぼらない? 千歳君に、学校の外を見せてあげたいな」

 千歳
「なんだよそれ、まるで俺が狭い世界で生きてる人間みたいな言い方。確かに学生が見れる世界なんてすごく狭いんだろうけど、でも学校にはちゃんと通わないとダメだろ」

 
「あはは、お堅いんだー」

 千歳
「だって、そういう人間じゃないか」

 その時、千歳の携帯電話に通知が入った。

 物部からだった。

 内容は、3とだけ書かれていた。

 千歳はそれにわかりました、とだけ返して今日の夜の予定が決まったのだった。

 
「えっと、誰から?」

 千歳
「友達からさ」

 
「女の子とのデート中にメールの返信とか、意外と無粋だね、やっぱり千歳君は学校で教えてもらえないことをたくさん勉強したほうがいいよ」

 千歳
「それは、梓さんが教えてくれるんでしょ?」

 
「まあ、それはそうかもね」

 熱帯魚は能天気に水槽の中を泳いでいて、梓も能天気に千歳のことを教育しようとしていたが、千歳の心境に一切の余裕はなかった。

 物部から緊急で3番の連絡が入ったということは、早く連絡を取れる状態になってくれということだ。

 当然スマホで暗号以外の言葉で話をすると察知されるので、3番としか書かないが、千歳は早めに梓との予定を切り上げて、物部とコンタクトが取れる小さな部屋まで移動するのだった。



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