短編小説『イーゼルを開いて』第2話
木島 義文(きしま よしふみ)の朝は早い。
五時にセットしていたタイマーに叩き起こされ、布団の中で半時ほど睡魔と格闘する。
それが終わると、のっそりと熊のように大きな身体を起こして首や肩のストレッチを行った。
最近買い換えたばかりの小型テレビを点けた。家電量販店で購入した格安な海外製だ。
世辞にも音質の良いとはいえないスピーカーからアナウンサーが読み上げる朝のニュースが響いてきた。それをBGMに洗面所へ向かう。
「俺もオッサンになっちまったなあ……」
そこには覇気のない中年男性の顔が映っていた。目の下には大きな隈ができ、小皺や黒いシミが所々見られる。彼が若いころにはボリュームのあった頭髪は今や地肌が見え隠れするほどに減少し、深いふかい諦めの息を吐かせる。
髭を電気シェーバーで剃り、歯ブラシを口の中に突っ込んで荒く動かす。
そうして義文は部屋に戻り、トースト一枚を何も付けずに頬張った。
義文は朝支度を手短に済ませ、安アパートを後にする。
彼が何年と通ってきた通勤路だが、最近は小さな変化を見つけてはそれを楽しむことにしている。直近で言うならば、新社会人たちの初々しいスーツ姿を見ることだ。
義文はそんな彼らの姿を見、自分の学生時代を思い返す。彼が大学を卒業した時代は「就職氷河期」と呼ばれ、どの会社も新卒採用を大幅に絞った。その結果、中間管理職が不足し、後に「失われた世代」と呼ばれるようになる。
政府が重い腰を上げて救済に乗り出したが、僅か数名の求人に何百倍もの人間が詰めかけることからもことの深刻さが窺える。
「はあ」
義文が最寄りの駅を見据え、大きく息を吐く。
彼もまた時代に取り残された者だ。アルバイトや派遣といった非正規で生を繋ぎ、世の不条理に耐えてきた。
だが、そういった経験を積んで誰もが強くなれるわけではない。義文のケースに至っては、それが内外ともに出てきていた。
生活にハリがなく、単調な日々。
そんな彼が変わったのが、SNSのグループチャットだった。そこでは異なる境遇の四人がそれぞれの悩みを零したり、時にはふざけ合い、また励まし合った。
インターネットが急速に普及し始めた時代を過ごした義文にとってそれは懐かしくもあり、新しい経験だった。
加えて、混雑する通勤電車の中でも楽しみがある。地味めのメイクをしているが、素材の美しさが光る一人の女性の存在だ。
義文は彼女を眺めているだけ幸せな気分になった。そこに邪な思いはなく、ただただ眼福として愉しんでいた。
しかし、自分のような中年が無遠慮な視線を送っていては失礼だと義文はすぐに視線を逸らす。
「……」
それに気が付いていた女性は「まあ、あたしに見惚れても仕方ないか」と心の底でほくそ笑むのだった。