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短編小説『イーゼルを開いて』第8話

「鬼島さん、昨日はすみませんでした」

 通勤途中、義文のスマートフォンが震える。他者に見られることがないハヤトからのダイレクトメッセージだ。

「ボク、昔から悪ノリする癖があって」

 義文はすぐに返事を打とうとするが、揺れる車内で思うようにいかない。

「ボク、いや、俺は学生時代うまくやっていたんですよ。それが今の会社に入ってボロボロに言われて、自信をなくして。せめてネットでは目立とうと思っちゃって」
「ハヤトさん」

 義文は次々に流れてくる文字列に相手を呼ぶことしかできない。

「Kさんとスイさんには完全に嫌われてしまっただろうし、グループのほうは抜けます。最後に、あなたを貶すつもりは少しもありませんでした。ごめんなさい」
「ハヤトさ――」

 義文は再び相手を呼ぼうとしたが、それは届くことなく、虚構へと吸い込まれていく。そして「このユーザーにはメッセージを送ることができません」と画面が無慈悲に告げていた。

 水谷 隼人は駅近くの施設で柱を背に黄昏ていた。

「俺、最高にダセエよな……」

 自らの行いを悔いる隼人。
 あの場所は荒れた現代のオアシスだったはずだ。多少ふざけても許してくれる友人たち。だが、昨夜の彼は甘えるがあまり、無作法に一線を越えてしまった。
 彼としては身を引くことでけじめはつけたつもりだが、後悔だけが降り積もっていく。

「仕事も辞めちまおうかな。なんて」

 隼人は俯いてついそのようなことを口走る。

「あの、すみません」

 次の瞬間、隼人の背後から忘れかけていた初春の風が吹き抜ける。柔らかさの中にひやりとした風を孕む懐かしい声色。
 彼がはっとして顔を上げると、そこには一人の少女が憮然とした表情で立っていた。いや、背丈こそ低いが、その表情はもう一人の女性として扱うよう物語っている。
 だが、痩躯でカジュアルな出で立ちとその顔立ちからか、隼人に動揺をもたらす。

「道路使用許可証です。そこ、わたしの場所なので動いてもらってもいいです?」
「あ、ああ」

 その少女は隼人が自分に見惚れているとは露知らず、書状と大きな黒のハードケースで彼を押しのけた。
 そうして少女のような女性はふう、と息を押し出す。

「……何を見てるんです?」

 ジロジロと、無遠慮な視線を送る隼人を女性は訝しんだ。

「あ、いや。この辺りでは見ない顔だなって」

 彼は咄嗟に嘘をつく。
 ここ東京は個性が際立ち、また埋没する日本の都。どこを見渡しても人、ヒト、ひと。一人一人を記憶している余裕など持っている人間のほうが稀である。

「普段は上野のほうに通っていますので。ここへは高校の時以来でしょうか」

 女性はケースから鈍く光るアコースティックギターを優しい手付きで取り出した。そして思い出に浸るかのようにボディを二、三度撫でる。
 そしてストラップを身体に通し、ピンと張られた弦を滑るように弾いた。それは雑踏の中でもかなり響くほどの音量ではあったが、それで歩みを止める者は誰一人とていない。
 女性はそれでも快調な相棒に満足そうに微笑み「お兄さんも良かったら聞いていってください」と淡桜色のピックを手にギターを弾いていく。

 音楽は聞くのが専門だった隼人に彼女がどれほどの技量かは計り知れない。ただ、巧かった。
 次に小さな身体からは想像のできないほどの声量に圧倒され、隼人と話していた時とは違う、温かみに溢れる声色が荒れていた彼の心に広く染み渡った。
 それは通勤路を急ぐ人々にも伝わったのか、立ち止まる者は存在しなかったが、皆が皆、春が訪れたあの日を思い出した。

「君は――」

 隼人が演奏を終えた女性に声をかけようとした瞬間。

「おおい、水谷―!」

 遠くから腹を震わせる低い声が響いた。

「あ、木島さん。いけね、こんな時間だ」

 スマートフォンで時間を確認した隼人が弾き語りの女性に軽く頭を下げると木島の元に駆け寄った。
 どこか楽しそうに立ち去る二人を見、女性は柔らかい笑みを浮かべて「そっか、あなたも居場所を見つけたんだね」と呟いた。
 そして慌ただしさの片隅で彼女は歌い続ける。
 色彩豊かな希望に溢れる歌を。

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