短編小説『イーゼルを開いて』第3話
「はあ……」
社会人にとって最も憂鬱な月曜日の朝。
全国に支社を持つ上場企業N社のオフィス前で隼人は立ち尽くしていた。
首からかけた真っ新な社員証。パリッとした濃紺のビジネススーツ。光沢艶やかな革靴。
フレッシュな服装に反し、浮かばない表情。彼の心には五月に流行する憂いに似たものが入社僅か数週間で訪れていた。
勤務中は頭が真っ白になり、退勤時には働くことの意味ばかりを考えている。
彼はまだまだ学生気分が抜けず、社会人になればもう少し生活に余裕が出てくるものだと思っていた。遊びに回せる金も増えるものだろうと。
だが、現実は親からの仕送りは途絶え、家賃や光熱費、その他税金など出ていくものが多過ぎる。
肉体も精神も、金銭的にも余裕のない日々。
「はああぁぁぁ……」
隼人が肺の中身を全てぶちまける勢いでため息を吐きだす。これが本日何回目になるか分からないほどだ。
「よお新入り。始業前からそれじゃ持たないぞ」
野太い声と共に隼人の背中に衝撃が走る。彼が素早く振り返るとそこには中年の男性が意地悪そうな笑みを浮かべて立っていた。
クリーニングを繰り返し、くたびれた年代物のスーツ。野生の熊を思わせる骨太の躯体。細かい傷や汚れが残ったままの濁った靴は彼の性格を映しているかのようだ。
「辛気臭いのは俺だけで十分だ。若者はもう少し元気にしてな」
彼は分かりやすい作り笑顔を一つ。隼人にそう言い残すと、カードキーがわりの社員証をリーダーにかざし、室内に入っていった。
「アイツはまた余計なこと言いやがって」
大きな背中を見送っていた隼人の背後から二度、苛立った空気がにじみ寄ってくる。それに覚えのある彼はゾクリと全身を震わせてそちらを見やる。
そこには隼人の上司である荒川(あらかわ)部長が目尻をこれでもかと言わんばかりに釣り上げ、相当立腹の様子だ。
「昔からそうだ。自分に余裕がなくても困っている人が居れば手を差し伸べる。他人の為なら泥だって平気で被る。ええいっ、なんという偽善の塊! 口にするのも腹立たしいっ」
部長は眉間にシワを寄せ、歯をギリギリと食いしばって顔を茹蛸のように赤く染め上げる。
何が彼をここまでかき立てるのだろうかと隼人は考え、そして「あの」と地団駄の構えにあった荒川部長に恐る恐る声をかける。
「荒川部長と、ええと……きしま先輩はお知り合いなのですか?」
「消耗品の契約社員などに先輩付けは必要ない!」
ますます激昂する部長。
「しかし、勤続年数でいえばあの人のほうが圧倒的に長いはずなので」
「ふむ。確かに『元』同期ではあるが」
少しずつ落ち着きと取り戻していた部長は、顔に浮いた皮脂を指の腹で拭い「いい機会だ。あの負け犬のことを教えてやろう」と通路の先を行き、隼人についてくるように促した。
そして十人ほどを収容できる小会議室に通され、荒川部長の愚痴めいた話を聞かされる。それは始業十分前まで続き、ようやく解放された隼人はげんなりとした顔で自分の席に戻る。
朝礼前の僅かな時間、視線を泳がせていると彼のデスクの対角線上に居た木島と目が合う。だが、彼の目は死へと誘う濃い深淵の色をしていた。
それは人生経験の浅い新入社員の彼にも感覚として伝わってくる。どれだけの絶望を越えればこのような目になるのかと。
しかし、それも刹那のこと。木島 義文はすぐ表の顔に戻り、隼人の視線を受けて小首を傾げてみせる。
「いえ」
隼人は汗の滲む手を振り、誤魔化した。
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