仕事が終わった日の夜。
千歳は自宅でSNSにアップされていた桜の画像を眺めていた。
警備した桜並木の風景だ。
白玉林檎さんのアカウントで拡散されていて、千歳のアカウントにまで情報が波及し表示されている。
正確な扱いとしては違法アップロードなのだが、誰からもお咎めがない。
まあ、作者自身がアップしているわけだからな、と思う。
法律的に言えば違法アップロードなのだが、作者自身が行ったことであるということ、企業が林檎さんを咎めていないことを考えるとすべて丸く収まっているのだ。
千歳たちが警備した理由はいったい何だったのだろうな?
この国のルールは法律ではなく空気が決めている。
誰かがそんなことを言っていたのを千歳は思い出した。
合法か違法かはさておき、画像の桜並木は本当に美しい。
具体的にどう美しいのかは千歳の語彙力と芸術鑑賞力で語れないが、千歳のような美術に疎い人間でも美しさがわかるほどの美しさ。
しかしながら、本当なら、今通っている学校の校庭でこの桜を眺められたかもしれないと思うと、少しやるせない気持ちになる。
千歳の部屋から見ることができる風景は一様にモノクロだった。
団地の壁はすべて白く、頑丈ではあるものの監獄のようだな、とも言えなくもない。
金曜日の夜なのに仮想空間の桜を眺めて眠る夜は辛いものがある。
これが持たざる者が感じてしまう苦痛というやつか。
最低でも、仕事じゃなくて遊んで金曜日の夜を過ごしたかった。
眠れない夜を過ごしていると、四季から着信があるのだった。
四季
「明日、都内の桜を眺めに行かない? 場所は決めてあるから、ゆっくり見れたらな、と思って」
千歳の明日の予定が決まった瞬間だった。
少しワクワクするのでうつな気分は晴れた。
明日は四季と一緒に桜を眺めにいこう。
次の日。
千歳は白シャツに身を包んで四季との待ち合わせ場所に急いだ。
相変わらず学校に通う服と何ら変わりがない服装だが、現れた四季もいつもと同じ服装でそこに立っていたのだった。
これなら釣り合わないということもないだろう、隣を歩いていて恥ずかしくはない。
四季
「おはよう」
千歳
「ああ、おはよう」
四季
「おしゃれね」
千歳
「四季さんからしてみたらそうだと思うよ」
真っ黒な四季と白シャツの千歳は神社の境内に咲いている桜を眺めて歩くのだった。
時期が時期なのか、くる時期が少し遅れてしまったのか、桜は散りかけだった。
あと一回雨が降ればすべて枝から落ちてしまうだろう。
逆に、風が吹けば桜吹雪が吹き、桜の花びらが空を舞ってくれるそれはそれで美しい風景。
千歳
「この前、臨時収入あったんだ。この前の300円返そうか?」
四季
「あれは喜捨だから。いいのよ別に。私の知ってる文化では当たり前のことよ」
千歳
「文化か。どんな文化なのやら」
四季
「まだ教えてあげない」
千歳
「その時が来たらでいいよ。内緒にしたいことは誰にでもあると思うし」
四季
「ありがとう」
千歳は四季の視線を追った。
頭上で散りかけている桜を眺めていたのだった。
桜というか若葉と言い表した方が正しいであろうその様子は、どう言い表したらいいのかわからないような、そういう状態だった。
変わらず、千歳の語彙では言い表せない何かでしかない。
四季
「私、好きなんだよね、こういう4月の桜でもない、5月の青葉でもないみたいな」
千歳
「ははっ、詩人かな?」
四季
「私の知ってる文化、ルールが厳格でね、あれもだめ、これもダメって言われたりするの。まあ、その都度罰金払えばいいんだけど、やっぱり学生だとね、親の目も厳しいし、困ることが多いかな」
千歳
「なんだか、大変そうだね」
四季
「だから、あいまいなものが好き」
千歳は内心くだらないなあ、と思った。
千歳としてはかっちりとしたものが好き。
だから、四季が言っているような曖昧なものは受け付けることができない。
この趣味嗜好は仕事をする上では役に立つ能力だが、子供としてはどうなのか。
千歳には無邪気に遊ぶ子供の心が見当たらない。
しばらく沈黙が続いた。
沈黙に耐えられなかったので千歳はスマホを開いてSNSを見た。
広告には、なぜだか社会人の憂鬱を描いた漫画の広告が流れていた。
ふと四季がそれをのぞき込んでくると、こんなことを言う。
四季
「今年からなんだよねー、そういうのが流れてくるの。昔は学生同士の恋愛を描いた漫画が多かったんだけど、今年からサラリーマンが仕事いやだなーっていう話ばっかりで。まいっちゃう」
どうやらこの広告は四季のところにも流れているらしい。
SNSのAIは仕事ができるな、と思うばかりだ。
仕事を始めて2週間程度だが、いろいろな出来事が起きる。
クラスメイトともそれなりに仲良くなれているし、それなりに順調だった。
四季
「千歳さんって、大人だよね」
千歳
「そうかな?」
四季
「大人だと思う。見た目とか、考え方とか、立ち振る舞いとか、全部が全部大人。千歳さんはどんな子供だったの?」
千歳
「どんな子供だったか、かあ。それは、分からないよ。子供の時から親がいなかったから、子供ってどういうものなのか分からない。ずっと妹の面倒を見て育ってるし、生まれながらにして子供だったことはないかな」
四季
「そっか、大変だね」
千歳
「それほどでもないよ。慣れれば平気」
四季
「本当?」
千歳
「どうなんだろう。できれば、学校にいる時くらいはみんなと仲良くして自然体でいたいかな?」
四季
「千歳さんの自然体って、どんな感じ?」
そう言われて千歳は何も言えなくなった。
代わりにこう言った。
千歳
「それは、大人の事情で削除されたのさ」
四季
「ふーん、お上手ね」
千歳
「それほどでもないよ」
千歳のはっきりとしない態度に四季は少し美しいな、と感じられたものの、千歳は内心を見られたようで少し気分が悪くなった。
気分は悪いが、別に四季が悪いわけではない。
四季は千歳への踏み込み方を運悪く間違えて、今回はこうして千歳の精神にダメージを与えているにすぎないのだ。
四季は悪くない。
そんなことは千歳にも分かっているし、傷を受けたことを千歳は隠し通している。
が、千歳の表情が多少曇っているので四季もどこかで間違えたな、と感じているのか、どこか気まずそうだ。
服装が真っ黒でもやはり女の子なのか、微妙な空気感を隠し通すことがどうしてもできない。
四季
「なんだか、ごめん、気に障ったかな?」
千歳
「いや、それほどでもないよ。変に大人になったら、こういうことはよくあるさ」
これも大人の対応。
千歳が肉体的にも大人だったとしたら、今夜は酒の蓋を開けるだろう。
四季
「なら、いいんだけど」
こういう話がある、大人になると自分が泣いていることに気づけなくなると。
大人になると自分が笑っていることに気づけなくなると。
大人になると、自分が怒っていることに気づけなくなると。
だから千歳は、自分が今傷つけられていることにすら鈍感になっていて、どうやって痛がったらいいのか分からないのだろう。
千歳
「なんだか、気を遣わせてごめんね」
四季
「いいよ、別に」
空気が逆に気まずくなった。
四季のような相手にすら楽しく会話できなくちゃいけないなんて、千歳はホストかよと思ったりもしたが、千歳としては相手に楽しく過ごしてほしいという思いが強すぎるのか、こういうやり取りになってしまっている。
四季
「ちょっと気分変えようか。喫茶店へ行こう。お茶飲めるところとか」
千歳
「助かるよ」
四季
「千歳君お金ないよね。奢ろうか?」
千歳
「いや、今は裕福だから、平気」
二人は近くの喫茶店に入った。
千歳は紅茶のストレートを、四季は抹茶ラテを頼んだ。
四季
「ストレートの紅茶なんて、やっぱり変わってるね」
千歳
「そうかな? 甘ったるいのがなんか受け付けないだけ。それから、喫茶店で一番安いメニューだからっていうのもあるかな?」
四季
「千歳さん流の中2なのかな?」
千歳
「そうかもしれない」
四季
「高校生になっても中2引きずってるんだ」
千歳
「いいや、早く大人になりたいなー、なんて思ってるから、中とかそれより、高2とびぬけて大2とかじゃない?」
四季
「言えてる」
否定してほしかったが、四季は肯定した。
四季
「大人になんて、なりたくないよねー」
千歳
「そうかな?」
四季
「そうだよ。できれば仕事なんてしたくないし、学校にも行きたくない。ひたすら遊んでるだけの子供になれないかな、なんて、思っちゃうときある。千歳君にはある?」
千歳
「子供になりたいと思うことはないかな。ここは同意してあげられなくてごめんね」
四季
「別にいいって。千歳君は本当に大人なんだね」
千歳
「強制的に大人にさせられたのさ。そんなにいいものじゃないよ」
四季
「じゃあ、私のこと子供扱いしてくれる?」
千歳
「いいよ、300円もらった恩があるし、子供扱いしてあげても」
千歳は今自分がどういう会話をしているのかわかっているのだろうか?
四季の立場を考えるに、心を相当開かなければこんな会話はしないと思うが。
いったいどういう理由で四季はこんな会話を千歳にしているのだろう?
が、千歳は子供だった時代が一度もないから、四季の態度の不自然さに気づけなかったのだった。
四季
「お酒飲みたい」
千歳
「20歳になってからね。子供なんだから、大人の味はまだまだ味わっちゃダメ」
四季
「コーヒー飲みたい」
千歳
「砂糖とミルクたっぷりの甘いのにしておきなさい」
四季
「ビターチョコ」
千歳
「四季さんにはミルクチョコをあげよう」
四季
「うん、完璧。子供扱いできてる」
千歳
「こんなのでいいの? お菓子の話しかしてないじゃないか」
四季
「いいのいいの。こんなもので」
四季は喫茶店の窓から外の景色を眺めた。
風が吹くたびに桜吹雪が舞うその光景は、四季の目には美しく、千歳の目には何の変哲もなく映るのだった。
四季はこう見えても美しいものが好きだが、千歳は、どうかな、審美眼のようなものがあるようには思えないが、四季が美しいといえば美しいと同調するだろう。
想うことはなく、想うことがないというわけでもない千歳の視線の先には四季の姿があった。
千歳
「四季さんって、どんな音楽を聴くの?」
四季
「音楽はあんまり聴かないかな。その場の風景から流れてくる自然な音を聴くのが一番好き」
千歳
「高尚な文化人気取りかな? 悪くないと思うけど、四季さんの目の前にいるのはジャンクフードにまみれてエレキギターの音を聴いて感受性がボロボロになった廃人だよ。なんか、申し訳ないね」
四季
「そんな風に言わなくてもいいのに。感性に上下はないから」
千歳
「まあ、そうだね」
千歳は形だけの同意をした。
本当のところどうとも思っていないのだが、とりあえず同意だけしておいた。
やはり、思うことはなく思うことがないということもないのか。
紅茶を飲み干してしばらく放談の後、二人は解散した。
帰り道、電車の中で千歳は電子公告の記事を見るのだった。
近年の犯罪率は増加の一方。
強盗や殺人は激減しているが、詐欺などの知能犯は年々増加しており被害額は右肩上がり。
警察の捜査能力はまるで追い付かず、通報されている件数は氷山の一角にすぎない、と。
家に帰ると、千歳はポストを確認した。
中には直筆の手紙と万札が数枚入っていた。
前回の仕事の報酬だろう。
今日はもう遅いのでお菓子を買いにいくことはないが、というか先日購入したお菓子がまだ残っているはずなので今日はいいとして、多分3日後にはお菓子の在庫が尽きるだろう。
今日の朝、四季とひたすらお菓子の話をしてみたが、お菓子は子供が食べるもの、大人は食べない。
妹の百々はまだ子供だから食べることができる。
千歳の考えはそんな感じだ。
今日は桜を眺めた土曜日だったが、四季の美しさに圧倒されて精神は疲れ切ってしまっていた。
なんだろうな、あんなに真っ黒な服装の異邦人に豊かな内面があったなんて驚いた。
千歳は直筆の手紙に書かれていた冷淡な内容を読み、やはりこれも焼いて処分するのだった。
セキュリティの問題をかいくぐるにはこうして直筆の手紙を書いて直送するしかない。
千歳は証拠が消えたことを安心すると、日曜日何もしないために床に就くのだった。
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