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人々よ、愚であれ 谷崎潤一郎

過ぎ去りし頁を求めて
~文学と私~

kyura

【谷崎潤一郎編 人々よ、おろかであれ】

 私がこの作家の本を開いたのは高校生の時であった。

 白状すると10代の少女によくある背伸びに近い感情で、帰りのバスを待っていた時、同級生たちが当時流行っていた少女漫画に黄色い声を上げるのを尻目に“刺青・秘密”と印刷された赤い表紙の文庫本のページをめくる。

 最初に収録された短編・“刺青”から、引き込まれた。

 孤高の刺青師が己の“恋“を少女の背中に彫り込む物語である。

 女郎蜘蛛、という所もこの刺青師の望みや…この先何人の男が彼女の犠牲になるか分からない女の秘めた魔性を象ったものなのだろう。

 刺青師の家を訪ねた頃は己の心に飼っていた女郎蜘蛛に恐れを抱いていた彼女も最後に、こう言い捨てる。

「お前さんは、真っ先に私の肥やしになったんだねぇ」

 この最後の一文を読んだ時、恐らく“この人、凄い事言ったな…”としか思わなかったと記憶している。


 谷崎の代表作と言えば、“痴人の愛”、“春琴抄”、“吉野葛”…などもしかしたら読者によって変わってくるものかもしれない。

(私自身に全くそのケがなく、怖いものみたさで好いているのかもしれないが)彼の描く“魔性の女”…というものに魅了されるのだ。

 他の作家の作品でも、

『その人を愛した恋人は、幸福にはなれない』

 …という類の、自分の人生では体験しないままであってほしいアブナい恋愛小説を読むようになってしまったのは確実にこの作家のおかげである。

 この作品集の後に読んだ『卍』という長編は、数回読んでようやく時系列の整理ができるほど構成も入り組んでいて…恋愛小説でこんな事を言うのはヤボのように思うが『誰が悪いか』を考えたらいけない話だと感じた。

 全員、望んであの愛憎劇の壇上に立ったのでモラルを求めようと感情がねじ伏せてしまうに違いない。

 常識人(兼、終盤までは数少ない作品の良心)の主人公の夫ですら光子の前には理性をかなぐり捨てて狂気のように彼女を崇めたてるようになってしまった。

 我々も第三者目線で読んでいるが、

『私は、この先もどうやったら光子さんに逢う事ができるか…それだけを考えていた』

 と、道ならぬ恋とはいえ彼女を一途に思う主人公・園子に気が付いたら情が湧いた。

 また、光子の性格を変える程追い詰めたもう一人の恋人・綿貫もある体質が原因で美青年ながら結婚(書かれた当時は今よりも“結婚”が重んじられていたのだろう)できず何としても美人の奥さんとして光子を貰い、幸せになりたい…と彼なりに足掻いていたのだと今になって思う。

 まぁ、綿貫に関してはどちらかというと嫌われている要因は何かにつけ被害者ぶって既成事実で相手を縛り付けるその性格に一番の問題があるような気がするが……。

 今も読み返していると時々心の中で、

「女の子に嫌われるの、体質云々じゃなくてそーいう所だと思うよ」

 とボヤいている。


 谷崎の描く小説の主人公たちは、女性もなかなかだが…(実は)男主人公も一見まともそうだがとんでもないヤツが多い。

 主人公視点で話が進んでいくのでそれだけだと“主人公不憫だなぁ”というのが第一の感想である。

 だが、『春琴抄』を例にあげると…。

 主人公の佐助(ヒロインの弟子)と盲目の琴師・春琴は師弟であり、佐助はとにかく師匠を崇拝している。

 元々、春琴の生家に佐助が奉公していた事もあるが…基本彼女に何をされても“お師匠さんが正しい”の一択である。

 盲目の彼女の手となり足となり、陰日向に支えている。

 ここまで書くと『義理堅く、不憫なヤツ』なのだが…。

 問題はここからである。

 ある日、彼女に気のある弟子の一人を袖にした挙句稽古の仕置きでケガをさせてしまう。

 それが原因なのかは濁してある上、現在でも“犯人は誰か?”という論争があるので特定はできないが…何者かが夜の屋敷に侵入して彼女の顔に傷をつけた。

 盲目ながらに自分の美貌に誇りを持っていた彼女は自分の顔を見せることを嫌がり佐助を近づけようとはしなかった。

 思いつめた佐助は自らを失明させて、その後も終生彼女に仕えた。

 一見すると愛と献身の物語である。

 だが要所で引っかかるのは地の分に滲み出る佐助の、

『美しく、琴の天才である春琴より認めない』

 という徹底した偏愛ぶり(本来はモノに対しての言葉だが、春琴を偶像か唯一神のように自らの手記に描いているのであえてこう書きたい)からは今読むと狂気のようなものを感じる。

 事実、初めて読んだ時…何故かは分からないが生半可なホラー小説も適わない程背中がゾクゾクとしたのを覚えている。


 ともあれ、彼の作品の中の登場人物たちは“酸いも甘いも味のある人生を送っているな”と思う。

 短編の中には色々な登場人物が主人公となっている。

 覚えていない頃に親元を離れ、厳しい宗派のお寺で修行する二人の少年の物語もあれば、だらしないが故に幇間となり、それが逆に天職となった男の悲喜こもごも等もある。

 だが、谷崎の小説の登場人物はとにかく生きる事への執着が強く、また…言葉だけだと悪く聞こえるが、彼らはわがままで自分の欲望に正直である。

 彼が世に出た頃に主流だった『自然主義』と呼ばれる文章とは打って変わっている。

 表向きは良い子ちゃんで、かなり内気なこれらの小説の人物に慣れていた当時の文壇や読者はこの美しく、鮮烈な世界とおろかで悪いヤツであり人間味ある登場人物たちをどう捉えただろうか。




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