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渋谷松濤 Au Temps Jadis

東京喫茶あなたこなた

Au Tempsタン Jadisジャディス
(渋谷・松濤)

 このお店を知るまでは、渋谷と言えばまず東横線からB5出口からヒカリエへ出てJR山手線へ辿り着くまでの道…という認識だった。

 たまにヒカリエをじっくり覗いて別のエッセイで書いた“SHIRO”という香りもの屋さんの奥にあるドリンクスタンドを見るか、渋谷109に行くまでの道ではスクランブル交差点の人混みにもみくちゃにされる所…という認識であった。

 恐らく、今の私の世代でも“渋谷駅周辺”と聞いてまっさきに想像するのはあの赤いネオンの光る銀のビルが見下ろすX字のあの雑踏であろう。

 だが、渋谷駅に降り立ちヒカリエとは反対方向…井の頭方面側の出口から出ると静かな…90年代、PARCOの洒脱なキャッチコピーが街並みを歩いていると頭によぎる原宿まで続く“カルチャーの街”の面影を見る事になる。

 これから目指すクレープ店は、渋谷と原宿のちょうど中間に位置する。

 なんでもお店を開いたのは1985年…クレープやそば粉のガレットと言ったものに人々があまり馴染みのなかった頃に閑静な住宅街の一角、オープンしたらしい。

 まず、如何にも渋谷のストリートと言いたい落書きがコンクリートの壁に為された裏路地を抜けるとタワレコや渋谷の109の背に回る。

 数多の路地が入り乱れる場所を地図アプリだけを頼りに右折…歩いていると閑静な住宅街に辿り着いた。

 角を曲がれば…向かいは何処にでもあるマンションだが蜂蜜色のレンガで出来た一軒家にフランス語の綴りで店の看板が吊るされ、晩夏のそよ風にはためいていた。 


 少々恥ずかしい話ではあるが、この店に入る時扉がどこにあるかが分からなくてお店の入り口のアーチをくぐった後、店の外に立っているのにも関わらず電話をかけた。

 店を覆う大きな窓枠の中に錆銀のノブは隠れていて、結局お店の人の手を借りなくても摩天楼の片隅にある雑踏の海を抜けた緑の中に佇んでいるおとぎ話の家めいた内装の(ジブリ映画、の方がニュアンスは伝わるだろうか…)ガレット店に“迷い込む”事ができたのだ。

 およそ40年、渋谷のビルが織りなす迷宮のような道たちを潜り抜けここへと辿り着いた人々を見守ってきたテーブルは年季が入り少し古傷がある。

 そのテーブルの上には陶器の水差し。

 “Eau Fraiche”という筆記体の綴りの下にカモミールかひなぎくの花が描かれている。

 席の仕切りか、あるいは装飾だろうか。

 ばら色のレンガの上に素焼きの鳥がとまっているオブジェがあった。

 席に着くなり、私は、

(今まで本で読んでいただけだったけれど、ホンモノってこんな感じなんだ……!!)

 と感激しきりだった。

 フレンチカントリーなインテリアや庭園の本を一時期読み耽った時期がある。

 パリの風景やお洒落を極めたパリジャンの作るラグジュアリーなインテリアもいいが、陽光を通した時の部屋が優しい檸檬色に染まる風合いの内装や
どこまでも広がる南部の海、反対に若草のにおいを帯びた北部の山がそびえ敬虔な人々が暮らす小さな村が点在するフランスの田舎が私は好きだ。

 いつかフランスに行く事があればパリよりもそちらを歩きたいという密かな野望がある。

 お店の会計台の真横には使いこまれた丸い鉄板があり、注文を受けると店員さんが慣れた手つきでクレープ生地を焼き上げていた。

 甘い、だけれど素朴ないい香りがふんわりと店内に広がりクリーム色のお皿に盛られたそれを盗み見した時一瞬だが…その男の店員さんが魔女の宅急便のフクオさん(おソノさんの旦那さん。キキが働くパン屋さんの店主である)に見え、慌てて目をそらしメニューを決めた。


 注文して、まず出されたのは“アップルアールグレイ”という銘柄のアイスティー。

 硝子に白い小花がプリントされたグラスに、花と茎のパターンの紙のコースターが下に敷かれていた。

 ガレットという料理は、シードルという林檎のお酒とよく合うらしい。

 私はお酒を吞んだ事はないのでよく分からないが…それを抜きにしてもフランスの嗜好品や飲み物で日本人の私も美味しく飲めているものは林檎の香りや果物の味が多いよなぁ、と思っていたが向こうではこっちに負けず劣らずポピュラーな果物らしく、都ではヴェルサイユでも栽培されてニナスの“マリー・アントワネット”という紅茶の銘柄の香りとなっているしシードル、というお酒も北フランスのノルマンディー生まれのお酒らしい。

 この紅茶もアップルの甘い、優しい香りとアールグレイの香り高さが調和していた。

 今回頼んだガレットはチーズ・ハム・卵が乗った向こうでは完璧、という意味の“コンプレット”と呼ばれ親しまれている組み合わせ。

 卵黄の上にはピンクペッパーが4粒乗っていた。

 実を言うと、クッキーのガレットは好きだがこちらのそば粉のガレットをちゃんとお店で食べるのは初めてである。

 生地をまずナイフで切り、口へ運ぶ。

 香ばしい風味が広がり(そばの実は本来こんな風味なのだろうか)、クレープとは違うカリカリとした生地に濃厚なチーズとハムの塩気がよく合う。

 卵の黄身をナイフで割り、流れた部分を口に含むと塩気が中和されピンクペッパーのツンとした風味が濃厚な具材を引き立てつつスパイスになっている。

 散らされたパセリも、新鮮な葉の風味が口に広がりガレットの味を引き締めていた。

 やはり、このお店で出されているこの紅茶もガレットやクレープとの組み合わせを考慮した銘柄なのだろうか……。

 とても合っていたのだ。 


 最後にデザートとして出されたのは、バターとお砂糖のクレープという名のその名の通りシンプルな味付けのクレープ。

 バターに銀のナイフを入れ、クレープ生地をフォークにとる。

 口に含むと先程のガレットとは違いもっちりとした、素朴な甘さの生地にバターがとけて飾り立てないクレープ本来の美味しさを味わった。

 ホイップクリームやアイスクリームでデコレーションされた外で食べるクレープも、勿論好きだ。

 だが、本来の……昔の人々が小麦色のそよ風がふくフランスの田舎町の昼下がりに家で食べていたのだろう素朴なガレットやクレープを食したとき時間を忘れる程に遠い昔の異国に思いを馳せていた。


 お会計を済ませて店の外へ出る。

 アーチを抜け、近くのデイリーヤマザキを抜けて雑踏が世界に戻っていく。

 夏の終わり…暑さでほとんど力尽きていたがあの空間に入り元気が出た感はある。

 渋谷駅への道の途中、ディズニーストアがあったので入るほどの余力は手に入れていた。




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