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短編小説『フィラメント』第7話

「……!」
「おっと」

 由衣がノートを両手で庇うよりも早く、釣り目の女子がそれを掻っ攫う。

「八木(やぎ)さんっ!」

 大人しそうな女子がその行為を咎める。

「こうでもしなきゃ一生見られないって。それにいつき、一番見たがっていたのはアンタだよね?」
「それは……」

 圧倒的な身長差で由衣の追撃を軽々躱していた八木は、いつきに意地悪そうな顔で言う。

「返せっ、この!」

 由衣が飛び上がり、八木の手からノートを奪い返そうとする。

「いつき、パス」
「えっ」

 八木はいつきにそれを投げ渡し、由衣の鋭い眼光はすぐさまその大人しそうな女子に向けられた。由衣が飛び掛かって強奪しようとした瞬間。

「わあ、素敵な絵」

 開けたページを見つめていたいつきがぽろりとこぼす。
 それを聞いた由衣は動きを鈍化させ、やがてピタリと静止した。

「前は遠目にしか見てなかったけど、こうして改めて見ると独創的というか……小桜さんだけの世界が広がっていて凄いなぁって」
「……」

 由衣は嘘偽りのないその真っ新な言葉に狼狽えていた。
 今まで負の感情を糧にただがむしゃらに絵を描き続けていた。認められたくて、認めさせたくて。
 やがて絵を描くという行為自体が好きになり、彼女が創り出す作品を多くの人に見て欲しいと思うようになる。
 ただ、それに対する感想が殆ど付かず悶々と日々を過ごしていた。
 今、由衣の目の前の女子は絵のことを「素敵」だと言った。
 それは暗雲が立ち込める世界に差し込んだ一筋の光ではあるが、由衣にはそれが眩しすぎて眉をひそめる。

「小桜さん、もっと見ていいかな?」

 微笑むいつきに由衣は数秒悩んで、ゆっくりと首を垂れた。
 自分の気持ちを認めた訳ではないが、作品に対する感想を聞くまたとないチャンスだ。と彼女は画策する。
 いつきはラフスケッチの多いノートを一枚一枚丁寧に眺め、その都度思ったことを糖衣 で包んで述べた。
 それが由衣には心地良くてついつい表情が緩んでしまいそうになるが、我に返って襟元を正す。

「これで最後かな。ありがとう」

 いつきが満足そうにノートを静かに閉じて由衣に両手で手渡す。
 家に色塗ったモノとかあるけど――と由衣は言えなかった。ここで全てのカードを喜々として全て出してしまえば自分のあの辛かった過去の自分を一部捨て去ることになる。
 毒を抜かれた毒蛇の行く末など誰も知りたくはないように、由衣もまた過去の自分と対峙し、新しい変化を恐れていた。

「私も簡単なイラストとかからでも描いてみたいなぁ」

 いつきが両手を合わせ、由衣に微笑みかける。それが何を意味するのかは言われた本人も分かっていたが、卑屈な本性が邪魔をして素直に受け取れない。相手のことを一切顧みない厭らしい語句が頭に木霊し、表情に影が差し込んだ。
 なかなか答えない由衣に対し、いつきはあと一押しだと思ったのだろうか「無理にとは言わないけれど――」と予防線を張ってからそれを乗り越える。

「もし良かったら、私に絵を教えてくれないかな? 今までは見るだけだったんだけど、小桜さんみたいな素敵な作品前にしたら自分でもやってみたくなっちゃって」

 由衣はその言葉に突き動かされる。

「減るモンじゃないし、教えてやれよー」

 八木が揺らいでいた由衣を更に押し出した。

「わっ……わたしは……」

 湿り気を帯びた由衣の言葉が小さな口から漏れ出す。様々な感情が渦巻く頭を整理し、暗い表情で「わたしなんか」と言葉を紡ぎだす。

「人に教えられるほど上手くないって……サイトとかSNSにアップしても殆ど見られていないし……才能ないから、教えてもらうなら他の人にお願いしたほうがいいかもね」

 由衣は言葉に詰まりながら苦笑いをした。

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