長編小説『エンドウォーカー・ワン』第5話
「『誰かの心臓になる』ってどういう意味だろうな」
子どもの腰上の高さほどの石垣に腰かけていたベルハルトがぽつりと呟いた。
本格的な冬を迎えようとしているが、夏の残滓を感じ取れる季節。
月光に照らされた吐息は白く凍り、夜空へと溶けていく。
「えっ?」
先程までは隣に座って他愛のない雑談を交わしていたというのに、急に真顔になった少年にイリアは困惑の色を隠せなかった。
そしてその言葉の意味を考えるが、誰がどのような状況で言ったかは彼女には分からない。
ましてや人生経験の浅い彼女なら尚のことだ。
それでも答えを導き出そうと頭をぐるぐると回し言葉をなぞり「うーん……難しいねえ……」と腕組みをして形の整った眉をひそめた。
「それって誰にどんな状況で言われたの?」
「とうさ……父上が出撃前に」
「多分……だけど。おじさんは誰かの為に生きろ、って言いたかったんじゃないかな? 誰かの心臓――つまり生きる理由、存在価値。そういうことだと思うよ」
「難しいこと知ってんな。子どものクセに」
「ベルよりも三か月年上ですぅー」
戦場は現場だけに限らず、いたるところに影響を及ぼしていた。
多くの子どもたちは戦地へと赴く父親を見送り、厳しい現実を目の当たりにして人格形成に大切な時期に灰を被った。
級友たちと学び、身体を動かし。
時には手を取り合い、対立して小さな社会を形成していく。
そんな時間を大人たちの都合で削り取られていた彼らの中には不安定な精神状態に陥る者も多く、早急な心のケアが必要であると提起されていた。
だが、現状は国防で手一杯な部分もあり十分な対策が施されているとは言えなかった。
そして月下で笑い合うこの二人も。
争いによって大きく人生を歪められ、その在りようを変えていくのだった。
それから数週間後。
西暦2330年も終わろうとしていた雪の降る寒い夜のこと。
「行って来る」
「おとーさ……父様。ご武運を」
「無理しなくていい。しばらく会えないとは思うが、風邪に気をつけるんだぞ」
「うん」
不安に曇るイリアの紅い目を見、彼女の父親は寝癖が残る銀髪を慈しむように撫でる。
愛情を一身に受けながらも物言いたげな瞳はじいっと彼を見上げていた。
「そんな顔をするな。いざとなったら投降でも何でもして帰ってくる。約束だ」
父親は手荷物を傍らに置くと膝をついて愛娘を抱き込む。
イリアには重ねられた「約束」が何かの呪縛のように感じられたが、今は黙って父親の首筋に軽く口付けをして無事を祈る他になかった。
「ラルフ」
「ミルヴァ」
長年連れ添った夫婦は多くを語らず、互いの名前を呼び契りを交わす。
居候の少年は家族の別れに水を差すまいと柱の陰に身を隠していたが、ラルフはそれに気づいていたのか「ベルハルト」と声をかける。
少年が顔を覗かせるとラルフは本当の家族に対するかのように「おいで」と手招きをした。
ベルハルトはいつもとは違う馴染みの家族にそっと歩み寄った。
イリアは様々な感情の入り混じった目で。ミルヴァは少年には垣間見ることさえできない光で迎え入れる。
「おじさんも行くんですね」
「この国を守る軍人だからな。何、心配してくれなくとも戻ってくるさ」
「父上も同じことを言ってました。そう言って、みんな居なくなる」
あの時の記憶を思い出したのか、ベルハルトは両手を痛いほどに握り感情に抗う。
いくら辛い経験を重ねようとも、別れを繰り返そうとも彼は弱いままであり続ける。
いや、それらに立ち向かうには幼過ぎたのだ。
そして彼は「悪い」意味で利口だった。
世の分からなくてよいことを理解しようとし、大衆が目を背けてきた事柄を見つめる。
それは別の意味で「利口」な人間からすればどれほど歪な生き方だっただろうか。
「二人を頼んだぞ。男の子だろう?」
ラルフが厳しい訓練の痕で少年の赤髪をくしゃくしゃと撫でまわす。
その感触もあの時と同じで、未だに連絡の取れない父親を想い、彼は小刻みに震えた。
「はい」
ベルハルトが精一杯振り絞ったその一言は涙色に染まっていた。
「いい子だ」
ラルフはそれを察し、撫でまわしていた手でベルハルトの頭をトンと叩いた。
優しい突き放しに少年は一瞬だけ呆けた顔を見せたが、幼い彼にも今は感情に身を委ねる余裕などないと悟り、未発達な精神で全身を奮い立たせる。
――きっと大丈夫だ。生き残れば、未来は開ける。
ベルハルトはそうやって自らに言葉を刻み込むことでとても重々しい一歩を歩みだす。
この時の彼のちいさな決意がこの星の行く末を左右する出来事になるとは誰が想像しえただろうか。
「では行って来る」
「おとーさん……気を付けてね」
イリアたちの視線を受け、終始穏やかだったラルフは街路で待機していた軍用車両に乗り込んで戦地へと赴く。
残された者たちには遠ざかる排気音がやたらと耳に残り、その場にいた誰しもが室内に戻ろうとはしなかった。
「……さあ、私たちもそろそろ準備をしましょう。列車の時間まで時間はあるけど、急いでね」
しばらくの沈黙の後、ミルヴァがそう言い石造りを模したアパートの中へ消えていく。
ベルハルトとイリアは視線を交わす。
銀の少女は紅い虹彩と白目の境界が分からなくなるほどに目を真っ赤にし、普段強がっている姿が嘘のようにぼろぼろと感情の雫を垂らしていた。
親愛なる者を喪う悲しさ。見送る時の不安。少年の心に痛みを伴うほどの感情が奔る。
「イリア」
小さな存在が、小さな存在を温かく包み込む。
「えぐっ……えぐぅ……っ。ベルぅ……おとーさん絶対に帰って来るよね?」
ベルハルトの腕の中で泣きじゃくるイリア。
少年はその問いに答えることなく「大丈夫。俺とおばさんが居るから、大丈夫」と幼子をあやすかのように銀の線を撫でる。
その時、彼の中には罪悪感が強く芽生えていた。
執筆・投稿 雨月サト
©DIGITAL butter/EUREKA project
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