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短編小説『イーゼルを開いて』第7話

「みなさん、聞いてくださいよぉ!」

 深夜、ハヤトの通知で各々のスマートフォンが躍った。

「うちの会社、毎日4時間も残業させるんですよ!」

 オオカミのアイコンが号泣している人の顔文字を流す。

「それは普通では……」

 義文が呆れつつ、慣れないフリック操作で文字を打っていく。

「普通じゃないですよぉ! いつ遊べばいいんですかあ!?」
「遊ぶ時間がなければ睡眠時間を削ればいいじゃない」
「そんなマリー・アントワネットみたいなこと言わないでください!」

 Kの返信に泣き続けるハヤト。
 義文はギシギシと軋むロフトベッドの上で相変わらず感情の激しい人だな、と口を歪めて眺めていた。

「ですけど、働かないと生きていけませんし」
「私の場合、母への仕送りもあるので尚更ですね」

 スイに義文の言葉が続く。

「お母さんへの仕送り、ですか?」
「ええ。もう高齢で認知症も出ていまして」
「なるほどなるほど。それは大変ですねぇ」
「あたしは貯金あるから仕事しなくてもいいんだけど、世間体がねー」
「Kさんお金持ってそうですしね。私は自分の事務所を開きたくて貯金中です。少しずつ、ですけど……」

 各々の思いがチャットログに連なっていく。

「ボクはFIREですかねぇ。早期退職して、遊んで暮らしていきたいです!」
「あたしは元の業界に戻りたいけど難しいからね。それにしても、スイは夢があっていいねぇ」

 Kがしょんぼりとした顔のアイコンを送信する。

「そんな、Kさんだってまだまだ若いのに」
「いやいや、三十過ぎたオバサンだよ。あたしは」
「おー、年増ですね!」
「なんだと、戦争か?」

 ハヤトとKが対立する。だが、それもまた日常でのこと。義文は穏やかな顔で流れていくメッセージ群を眺め「みなさんは素敵な夢をお持ちなんですね」と軽い気持ちで流す。

「鬼島さんは夢とかないんですか?」

 悪手。
 スイの悪びれない問いが義文の封印していた記憶を解き放ってしまう。
 通うたびに衰えていく父親。間もなくして額縁の中の人になり、母親は三日三晩泣き明かした。
 それ以降、生き甲斐を失った母親はただ生きているだけの状態に陥る。
 離れて暮らす妹は育児に忙しく、長男である自分が面倒を見るしかないと地元へ戻る決意を一旦は固めた。
 だが、現実は冷酷なもので、正社員としてのキャリアがない彼を採用しようという企業は皆無だった。
 義文にのしかかる重責。

「鬼島さん?」

 暫くの静寂にスイが義文に鬼問を投げかける。彼は重いおもい空気の中、溶いた飴の中を突き進むようにゆっくりと文字を打ち込む。

「……解放、ですかね」

 義文は打ち終わって後悔する。こんな根暗な男は嫌われても仕方ないと。

「ああ、なるほど。つまり鬼島さんはお母さんのことを」
「ストップ」

 ハヤトが途中送信することを知っていたかのように制止するK。

「あれあれー。ボクはまだ何も発言していませんよ? Kさんは言葉の先に何を想像していたのかなー?」
「お前と同じことだよ!」
「あらあらあら。心頭御怒りのようで」
「ハヤトさんが焚きつけるからですよ! 鬼島さんとKさんに謝ってください!」

 荒れる光届かぬ黒い海。
 義文の心が僅かに軋む。

「はーい。ごめんなさーい」
「……舐めてんのか。あんたとは無理だ。あたしはオフ会なんて行かないからね」

 ぎしり。

「まあまあ。私もハヤトさんが言わんとしていることを思っていましたから。気にしないでください」

 ぎしり、ぎしり。

「正直なところ、限界だったんです。自分は何のために働いているのか、行く先も見えない未来へ踏み出していいのか」

 静寂。

「母を支えるだけの私に、このような良い友人が出来たんです。それをこんな形で失いたくはない」

 そして静寂。

「ですから、みんなで会いましょう。約束したあの日に」

 義文の思いを嘲笑うかのようにスマートフォンは静寂を保ったまま朝を迎えた。

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