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地味でも堅実な、地に足のついた生活を

 先日投稿した動画で、「中国は消費が活発になる春節に合わせて疫病規制をなくしたのは、V字回復と急成長を演出するためだろう」ということを話した。

 20日にグローバルタイムズに掲載された記事によれば、2023年には5~6%の潜在成長率レベルまで回復すると予想されているという。長期の目標では中国の経済規模と1人当たりの所得は2035年までに2倍になり、第14次5カ年計画期間 (2021年~2025年) の期間中の中国のGDP平均成長率は少なくとも5%になるそうだ。

 国内需要を拡大するためにも投資が活発にならなければならないとしているが、その対象業種はインフラや製造業であり、不動産市場への投資は減らしていくということが書かれている。習近平の「共同富裕」のコンセプトの中でも「住宅は投機の対象ではなく住むためのもの」ということが強調されており、ワンルームマンション投資にハメられるアホはよくよく学ばねばならないだろう。

 この事例からも、今後の経済世界の需要の原則がわかる。それはつまり「実需」「実体経済」ということであり、人間が生活する衣食住、実体のある資源やものづくりが最優先であるということだ。アメリカの覇権はスタジオで演出・撮影された虚構だった、そういう虚像とフェイクの中で我々は生かされてきたのだということをドイツのメタルバンドも歌っていた。

 虚構を演出する必要があったのは、畢竟米ドルが不換紙幣という紙切れであり、その通用性をなんとかでっち上げなければならなかったからだ。

 歴史上はじめて不換紙幣を流通させたのはモンゴル帝国で、交鈔と呼ばれる紙幣(紙幣というよりも布だったが)を支配地で流通させた。モンゴルといえば、西はキエフ・ルーシを支配し、「タタールのくびき」と呼ばれるようにロシア史にも多大な影響を及ぼし、東は鎌倉時代の日本にも攻めてきたように、強大な騎馬兵による軍事力を擁していた帝国である。これだけの軍事力を持った国だからこそ、ただの布切れを紙幣として流通させることができたわけであるが、かみ砕いていえば不換紙幣の通用力とは軍事力によって裏付けられるものだということである。だからこそ戦後のブレトンウッズ体制のもとでも、アメリカは世界中で戦争をやってきたわけだ。戦争自体が儲かるというのもあるが、「アメリカ軍は強い、ドルを使わないと米軍にやられる」という神話が米国覇権の礎というか、覇権そのものであったからだ。そういう神話なしに通用する、資源・コモディティによって裏付けられた貨幣システムでは、神話を維持するための戦争を行う必要がそもそもなくなってしまう。もちろん商売の一つとして、戦争や紛争がなくなるわけではないだろう。だが今よりももっと全体的に平和な世の中になることは確かだろうと思う。

 そんな世界経済の動向がわかってもじゃあ具体的にどうすればいいのかという向きもあろうが、一個人の生活としても虚勢を張らず虚栄を追わず、実利と実体に根差した、地に足のついた生活をしていけばいいのである。見栄を張った買い物で金を無駄遣いしたり、節税や老後の備えといったあいまいな理由でしょうもないワンルームやどうしようもない土地を買ったりしないことである。別に投資や運用をするなという話ではないが、経済原則をよくよく弁えたうえで物事を見極めていかなければならないということである。

 地に足のついた生活を送るための一つの具体的なヒントは、生活の固定費を見直すことだ。家賃は日常の出費の中で最も大きな固定費だから、これを見直すと、だいぶ生活における金銭的な実感が変わってくる。私は現在函館に住んでいるが、家賃の負担は数年前東京に住んでいた時の4分の1くらいだ。しかし実感としては10分の1くらいになって、ほとんどかかっていないような感じがする。

 これの何がいいかというと、一番は気持ちに余裕ができてくるということだ。東京に住むことは、もともと東京の地主でもない限りつねに住処を追われるリスクと表裏一体である。この現実は意外と見過ごされているが、東京で生活するストレスの根底にはこの恐怖感があると思う。

 支配者が民衆を支配する主要な技術の一つは、民衆につねに恐怖を与えることだ。これはマスコミが戦争や疫病を扇動するという直接的な側面と、民衆を生活の基盤が不安定な状態に置くことで恐怖を感じ続けさせるという間接的な側面がある。近代以降の日本では、東京に出て立身出世を成し遂げるのがエラいのであるというストーリーを流布して、地元を離れて首都圏で寄る辺ない生活を送るのが素晴らしいのだという刷り込みをやってきた。もともと東京に地盤のない上京者たちは、ただただ東京にい続けるということのために多大なストレスと労働に従事させられることになる。千葉とか埼玉とかでも同じことだ。通勤・通学に1時間も2時間もかかるのでは毎日が参勤交代で、自分の心理的・肉体的なリソースを浪費させられているのと同じことだ。

 日本が経済成長していた時代には、それでもリターンがあった。だがバブルが崩壊して以降、そのような首都圏で無理をする生活のリターンは著しく低下した。就職する以前の大学生活でも同じだ。無理して首都圏の大学に行く必要があるのか?飲食店でアルバイトしてまで払う学費に見合うリターンは得られているのか?

 最近は文章生成AIの進化が著しく、特に対話型のchatGPTが盛り上がっている。とりわけ目を引くのは、ペンシルバニア大学ウォートン校(トランプ大統領の母校でもある)のMBAコースの試験に合格し、何人かの人間の生徒よりも高い成績をこのAIが収めたというニュースだ。

 これはつまり、普通の大学に行って身につく標準的な能力くらいのことは、AIによって代替されることが確定しているということだ。最近の大学はとくにカリキュラムをちゃんと組んで、学ぶ内容を定式化してしまっているから、なおのことAIに代替されやすい。大学に入って講義に行くと、教授が教科書には載っていない・カリキュラムにもない世の中の裏側を教えてくれるとか、飲みに連れて行ってくれるとか、そういうこともハラスメントがうるさかったり疫病のせいだったりでない。だったら、地元で生活の基盤もすでにあるところで、自分が楽しめる・興味を持てることに没頭したり、漫画でも読んでるほうが百倍マシな若い時間の使い方なのではないか(ナニワ金融道とか)。どんな分野のことであれ、イヤイヤ試験のために覚える人間と、その数億倍くらいの情報量を一瞬で処理できるAIではハナから勝ち目がない。没頭しきっても追いきれないほどの情報がネットには無限に転がっているのだから、生活の心配はとりあえずない場所で、自分の興味関心を追及するほうが、よほどリターンは高いだろう。このリターンというのは金銭面だけでなく、満足度とかそれによって知識や教養が身につくといった広い意味での話だ。

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 いろいろ話が広がりすぎてしまったが、地に足のついた生活を構築することの重要性は、心理的に安心して、精神的に落ち着いた状態で日々を送るためにある。これからの時代は、とにかくオープンマインドで、のほほんとしたスタンスで生きていないといろいろと難しい世の中になってくる。もともと東京に生活の地盤があるならいいかもしれないが、そうではなく地元を離れて東京に出て、殺伐とした競争の中で生きていると、新たなアイデアや発想にも恵まれなくなる。

 社内での競争にようやく勝ったと思ったら、機械化・AI化や市場の変化で会社や市場自体がなくなってしまうということが普通に起こる。自営でも勤め人でも、自分がやっていることややってきたことが一瞬で無意味になるということが頻繁に起こるようになるだろう。そういうときに、オープンでのほほんとしたマインドでないと、精神を病んだり、他人を妬んだりといったダークサイドに堕ちてしまう。いまの日本でパワハラやいじめが横行しているのも、本質的にはコレが原因だろうと思う。現時点でも、デジタル化・AI化のために無意味と化している仕事はかなりある。それに際して、「いやあ、参ったねぇ」となんとなくのほほんと受け流して新しいことを考えていけるかどうかというのが、生死を分けるくらいの重要な違いになる。パワハラで死ぬ人間もいるのだから文字通り命にかかわる話だ。先入観や固定観念を捨てて柔軟に考えられるようになる、ということがいちばん肝腎で、いまの教育が行っていることの真逆を行かなければ幸せに生きていくのは難しいだろう。

 この記事も、多くの人にとっては認知的不協和をもたらすであろう「中国は経済成長していく」という話から始めた。中国に対してマイナスの先入観を持っている人は、冒頭部分だけで認知的不協和のもたらすストレスで読むのをやめたことだろう。仮に認知的不協和があっても、「まあ、そういうこともあるかな」と先入観にとらわれずに読み進めた人は、この末尾まで到達しているはずで、民衆支配の技法と最新のAIの進歩とこれからの時代の生き方についてコンパクトに知ることができたわけだ。あまり堅苦しく考えずに気楽に生きていくのが大事だ。


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