20211001_人生≒TRPG

以前、付和雷同について日記を書いたら、友人から「意思決定を他人に委ねることは悪いことなの?」と言われたのをずっと考えてた。昨日Detroitをやって、「人間が生きる意味」について考えたら、この結論が出せそうなので、考えが風化しないうちに書いておくことにする。

Detroit: Become Humanでは序盤からアンドロイドが人間を殺す描写が出てくるし、失業者による反アンドロイドの集会も描写されている。愚かな人間に対して、完成されたアンドロイドが優れているのは(SF世界なら)当然かもしれない。アンドロイドは、恐らく極めて合理的に仕事や問題を解決してくれるだろう。

アンドロイドの方が全てにおいて優れていて、仕事を奪ってくれるなら、人間は種の存続のために生殖以外に何もしなくて良いのではないだろうか?アンドロイドに代替されない仕事として、芸術などの創作がよく挙げられるが、人間に残されるのが芸術と生殖だけというのはなかなか信じたくないが、それはそれで楽しげな未来像だ。(芸術すら奪われる可能性もあるかもしれない。そういうSF作品は多い)

では、Detroitの世界に限らず、「人間が生きる意味」とはなんなのだろう?芸術だろうか?それとも生殖か?私は人生の本質は「(自らの幸福を)"選択"すること」だと思う。そして、それは不安定性・非合理性によって担保される。
これは人間が愚かである所以でもあり、私が克服したいと思うものでもある。道具としてアンドロイドを設計するなら真っ先に排除すべきもので、人間としてアンドロイドを設計するなら組み込まなければいけないものだ。
これはつまり、日常の何気ない気まぐれ、今日はこの道を通って帰ろうとかそういったものこそが、人生の本質であるということだ。もちろん、"選択"とは帰り道のことだけでなく、進路や恋愛、生死に至るまで多岐にわたる。それは個人的な判断によるものであってもいいし、サイコロを振って決めたことでもいい。ただ、自らが選ぶということだけが重要だと思う。

シェイクスピアは「人生は選択の連続である」と言ったが、私の考えではその選択という行為自体が人生の意味そのものであるということだ。ここで冒頭の「意思決定を他人に委ねることは悪いことなの?」に戻ると、選択権を放棄することは悪いことではない。ただ、人生の意味を失うことになるのではないかという危惧を感じる。
例えば、アンドロイドに言いなりの人を想定する。その人は極めて合理的な行動をするだろう。しかし、その人はその人の人生を歩んでいるのだろうか?(言いなりになることを”選択”しているとかいう揚げ足取りは無意味なので割愛する。その事象に対して直接判断を下していないので)
付け加えるなら、この考えは共感や同調を徒に否定するものではない。他人と同じ考えを”選択”したのなら、それはきっと意味があることだ。だが、自分の選択権を放棄する、これがいけないと思う。

未来では合理化が進んで、アンドロイド秘書が今日の予定を効率的に組んでくれるだろう。今日は何時まで創作して、何時に誰と飲み会があって、何時にホテルに行く予定です。その後のことは…と言うかもしれない。その日はきっと素晴らしい一日になる。ただ私は、帰り道くらい気まぐれに選びたいと、そう思うのだ。きっとその方が世界が美しく見えるだろうから。

今日の日記
という考察は置いておいて、今日はCoCの「先生」をやった。いや、良かったですね。「先生」。数少ない生還者に名前を連ねることができた。それが良かったのかは分からないけど。久々に静かな狂気のRPをできたし、勝手にエモい伏線を仕込んで勝手に1人で納得するとかいう中々無いプレイ体験ができた。楽しかった~~~~!!TY KP


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