制限時間十分、リトライ不可

 眼を覚まして辺りを見回すと知らない風景が広がっていた。彼女の周りで夕暮れが落ちていく。何が起きたのか分からない。分からないまま彼女は塀垣から降りた。大きな家の側に自分はいたということになるが、なぜいたのだろうか? この人混みはなんなのか?

 視線が低すぎる。もっと身長が高かった筈だ。混乱しているが足は動く。主婦が乗る自転車が彼女の尻尾を踏みそうになり、悲鳴を上げた。驚きが強くて何を考えていたか忘れてしまった。

 彼女はもつれる身体で駆ける。いまははじめて渡されたラジコンを運転しているようなものだった。住宅街を抜け、車を避けながら進み、オフィス街へと入った。

 胸を焦がす熱情に掻き立てられて、彼女は足を動かした。言わなければいけない事があったに違いない。だからこそ自分は降りてきた。何を言うのか? それもまた忘れているがとにかくいましかなかった。次はない。

 足を動かす彼女の目に、建物から出てくるビジネスマンが目に入った。彼はため息をつきながら鞄を持ち直して、空を眺めた。彼女は彼の前に近寄り、見上げるとにゃあと声をかけた。本能は逃げようとしているのに、理性が近寄らせたのだ。

*****

「なんだ、猫か。珍しいな。おい、慰めてくれるのか」

 彼が頭をなでてみると、猫は応えるように鳴いた。

「そうなんだよ。最近は良い事がなくてな。仕事も失敗続きだし、彼女と別れるし、それに親父が肝臓悪くしちゃってな。人間はいろいろ大変なんだよ。お前が美女とかにならないかなあ。大富豪でもいいぞ」

 言って歩き出すと猫がついてきた。珍しい。

 構わず帰社しても良かったが、どうせなので公園で休憩する事にした。猫はまだついてきた。

 ベンチに座ってスマホを取り出すと、報告書の下書きを検討した。猫が彼に擦り寄ってきた。本当に珍しい。飼い猫だろうか。主人が彼にそっくりなのだろうか。

 ぶにゃぁ、うぐるる、ぐにゃあ。鳴き声もフシギだ。こいつ発情期か。触ると嫌がらないので、彼は猫を抱き上げた。ここまで来たら最後まで行ってやれ。猫はぺろぺろ顔を舐めてきたので彼は恥ずかしくなった。すると猫は瞳孔を開き、にゃあと何かを訴えかけた。にゃあにゃあにゃあ。歌のような調子に彼が聞き惚れていると、猫の叫びは大きくなった。公園中に響く音で、切実だった。構ってほしいのか、と彼が思うと、夕暮れが建物の陰に隠れた分かった。

 猫は怒り狂ったようにもがくと地面に落ちて、のたうちまわった。猫の態度には悲しみが感じられて彼も悲しくなった。親猫でも死んだのかもしれないし、あるいは何か宝物が壊れたのかもしれない。だが次第に猫はぴたりと動作を止め、猫らしい四つん這いの体勢に戻った。辺りを見回した猫は、どうしてここにいるのか理解できないような顔で、茂みへと走っていった。彼は目を丸くしてそれを見送った。猫は二度と戻ってこなかった。

《終わり》

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