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遺書、起つ

 男は遺書を綴っていた。世の中に絶望していた。未練だらけではあったがそれ以上に生きている苦痛が耐え難かった。静かに文章を書き終えて静かに死ぬつもりだったが、気づいたらむせび泣いていた。文章も支離滅裂になっていた。

 どうにか書ききったがいったい何を書きたかったのかさっぱりわからない。最後の言葉がこれではいかにも情けない。どうせ最後なのだからと余計な意地が出ると、男は消しゴムで文章を消し始めた。手元に鉛筆しかなかったのだ。

 やっと消しゴムをかけ終えたがすでに疲れ切っていた。だがここでやめたら次にいつ再開できるかわからなくなる。また一気呵成に上から書き始めたが、気合の入れようは学生の頃に打ち込んだソフトボール以来のことだった。殴り書きの勢いで自殺するつもりだった。

 やりきった。遺書を仕上げた男は久しぶりの満足を味わいながら紙から顔を離した。すると自分の字の下手さにうんざりした。家にPCはない。男はのたうちまわった。いざ遺書を発見された時、それが判読不能だったらどうしよう。

 泣きながらまた消しゴムをかけた。忌々しい字が消える速度も遅い。手が汗まみれで紙も汚れすぎている。どうして字を書くだけでこんなに苦労しているのか。だがこれを放り出して死んだら、それこそさっきまでの意地も否定することになって浮かばれない。

 紙を捨てようかと思ったがこれが最後の一枚だった。これ以外に書くものはない。汚い紙を震える手でなでつけてから、また書き始める。溶岩の上を渡っている心地だった。文もだいぶ変わってしまった。

 終わった。とうとう最後を仕上げたのだ。字はまあまあ読める。構成も大丈夫だ。他人が見て誤解する場所はない気がする。後はどうするか。やはり人が見やすいように開けた方が良いか。だが折った方が丁寧に見えないだろうか。悩ましい。有終の美を飾りたいのだ。目頭をほぐして考え込んでいるうちに、疲労でぐらぐらしていた意識が数秒ほど眠りに落ちた。

 無意識で男は、小さな遺書と再会していた。自分の机に置かれている紙と向かい合い、お前も大変だよなあ、となぜか声をかけていた。夢の中の男は少し自由で、呼吸がしやすかった。

 俺みたいな奴に書かれるとは申し訳ないなあ。作られた状況が違うなら、プレゼン用紙とか手帳にでもなれただろう。本当にごめんな。

 そんな事ありません、と遺書が答えた。あなたは僕を丁寧に書いてくれたじゃないですか。本当に嬉しいんです。あなたみたいな人に出会えて良かった。あなたは僕のお父さんだ。

 男は目覚めた。気絶していたらしい。

「お父さん」と遺書が呼んだ。男は瞬きした。

「お父さん。僕です。あなたのおかげなんです」

 幻聴だったかもしれないが、それよりも紙に触りたくて仕方がない。汗まみれの手で握ると、遺書が微かに動くのが感じられた。少し空いた窓から風が吹いたのかもしれない。そうでないかもしれない。

 彼は立ち上がり、震える手で紙を掴んだ。それを折り畳みポケットに仕舞った。命を頂きました、と遺書が言い、よく聞こえた。胸が熱かった。

《終わり》

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