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あなたに捧げる物語 第一話

1


 チバが得体の知れない朗読の仕事を引き受けたのは、日当五万円だったからだ。仕事が来ない声優にとって五万円は生命線だ。外国語訛りがあり、マネージャーを通さない依頼でも。

「ラー、シゥワーズ、シゥワーズ……」チバはあらゆるものを無視して現場入りした。雑居ビル、付き添いの大男、日本語ではない台本。そして彼の前に座る、全身が包帯で包まれた老婦人。仕事と金がなければ環境を選べない。

 老婦人は椅子に縛られていた。唸り、足をばたつかせる。

 大男は「優しげな声で読み聞かせをしてほしいんです」。

「ルルロッド、アスケントゥス……ジャァラ」

 チバはいつものように本の世界に入る。程なく、自分が求められているものがわかってきた。昔話だ。日本語でなくても、言葉の入りと音の継ぎ具合から判断できる。

 老婦人の包帯が血でにじむ。嘔吐した。

「クセです。気にしないでください」

 音読は続く。朗読量は十枚を超えたが、さほど疲れを覚えない。不思議とチバは居心地の良さを覚えている。上の采配、本、自分、オーディエンスを通して声優は実現する。チバは業界に入ったことを後悔していた。しかしいま、この業界で初めて、納得のいく仕事をやれている。気分がいい。この空間は調和が取れている。老婦人は悶えながら仰向き、口を開いた。

「オッチョ、」

「ガダ!」大男が声を張り上げた。チバは音読を続けながら眉をひそめる。

 朗読をしていると、老婦人は動かなくなった。この昔話はどういう意味を持つのか、チバは考える。これは文章なのか、魔法なのか? 老婦人はなぜ聞かされているのか、どうして大男は自分でやらず、人に朗読させるのか……

 大男が「もういいですよ」と言った。「今日は十分です。また明日お願いしますね」大男は封筒を差し出した。チバは中身も見ずに懐へ入れた。

「明日もあるんですか?」

「お伝えしていませんでしたね。しばらくかかります。やってもらえますか?」

 チバは老婦人を見た。動かない。チバは言った。

「同じ時間に伺います」

2


 外に出たチバは真っ先にスマホを見た。朗読中は別室に私物を保管していたのだ。既に午後八時を回っていたが、チバは朗読に没頭していて気づかなかった。

 マネージャーから着信が三件入っていた。

 チバは声優事務所に所属こそしているが、社員待遇を受けられるわけではない。チバ宛てのオファーがマネージャーを通して事務所に来て、ようやくチバは事務所に出入りできる。つまり事務所の威光を傘に着て動けないし、事務所名義で練習場も借りられない。大御所や波に乗っている若手ならその限りではないが、チバにそんな力はない。実力のないチバがもしマネージャーに愛想を尽かされたら、一気に路頭に迷いかねない。マネージャーはチバ以外にも五人の声優を担当しており、その中のパワーバランスでも、分が悪い。

 チバが震える手付きで電話をかけようとすると、先にスマホが着信を知らせた。手が震えてあやうく切断するところだった。

「もしもし」チバは震えを声に出さない。それくらいの演技は身に着けている。

「いまどちらに?」マネージャーの声は温和だったが、内部には詰問が籠もっている――人の連絡を無視してどこで油を売っていた? お前は半年も仕事がない役者なんだぞ? その事実を理解しているのか?

 マネージャーのミズキは事務所に勤続して十年だ。彼は何人も、叩き潰されて業界を去る新人を見送った。チバの崖っぷち加減はよく知っている。

「いま臨時でバイトがあったんです。駅前の」チバはもちろん声優としては食っていけないので、週五でバイトしている。職場はアパート近くの牛丼屋で、時給は最低賃金ギリギリだ。バイトに入る前までチバは、声優のファンや追っかけに盗撮されるか、何かの形で個人情報をバラまかれるのではないかとの恐れを抱いていたし、それを半ば誇りに思っていた。バイトには数年入ったが、チバの動向がSNSに載ったことはない。「クルーがひとり、インフルエンザにかかっちゃって。スルーできませんでした」

「久々にオーディションの連絡がありました」ミズキはチバの言い訳を無視した。「オーディションは明日です。前にチバさんが落ちた、ソシャゲの『カーリーワイズ』のオーディションです。担当は通行人役の……CとDですね」書類をめくっているのだろう、ミズキの声が若干遠い。「普通は一回落ちたら見てもらえないんですが、無理やりプロデューサーのサイトウさんにゴマをすって、あなたをねじこみました。受かればまた現場に復帰できますし、他の声優さんにも認知してもらえます。忙しいと思いますが、これから事務所で打ち合わせしましょう。関連資料はチバさんが来られるまでに準備します」

 歯に衣着せぬ物言いはミズキの常だ。チバとしても、それくらいぶっちゃけた言い方をしてもらったほうが正直ありがたい。

「わかりました。では事務所に、」チバはハッとして、出てきたばかりの雑居ビルを振り返った。ここはミズキには伝えていない。なんとなく、言ってはいけないという予感があった。「オーディションの時間、何時ですか?」

「三時です。場所は外神田の――」

 チバの血の気が引いた。朗読の時間は午後二時からだ。オーディションを受けるなら確実に数時間は取られるし、前後の打ち合わせも含めれば開放されるのは夜になる。つまりオーディションか朗読かを選ばなければならない。

 思わず雑居ビルを振り返った。さっきまでチバが老婦人を苦しめていた雑居ビルからは、まだ誰も出てきていない。つまり老婦人と大男はまだ中にいる。ビルにはさっきまでの神聖な雰囲気が充満しているように見える。それからチバは自分の声が、いかに部屋の中で澄み渡っていたかを思い出した。老婦人が嘔吐した瞬間、自分ははっきり声優として仕事をしていた。他人には理解できない常識を超えた何かがあった。

 これまでチバがしてきた仕事で、満足できた仕事は一つもない。業界に入る前まではあれこれ空想していたが、実際にできたのは、スタジオにすし詰めになって一言二言だけ声を発する、聞けば忘れるような洋画吹き替え、一時間足らずで終わる国語教材の読み上げ、PCゲームの一言しか発さないティーンネイジャーの役柄だけだ。それも実力派が無視するようなオーディションにギリギリで受かったからに過ぎない。ライブMCやアニメの主演、ナレーションなどのすぐ想像できる役柄は天の高みであり、チバは常に地べたを這いずっていた。チバはスタジオでいつも大御所や、演技の天才としか思えない同業者、エネルギー溢れる若手に圧倒されていた。この世界に男も女もなく、演技が下手なら干されて死ぬし、目立たなければやはり死ぬ。チバは上を目指すとかそういうレベルではなく、単に野垂れ死にしないためにマイクにしがみついていたに過ぎない。肩書きこそ声優であり事務所所属だが、資格はない。薄氷の上に立っている不安定な立場だった。

 だが、チバは自分が関与した作品――教材、洋画吹き替え、PCゲームを、発売されてから聞いた覚えがない。仕事上の義務的なチェックのみで、発売された後では購入していないし、買おうと思ったこともない。現物が送られてきたこともあるが、聞こうとすらしなかった。

 チバはいった。

「明日もバイトが入ってて」

「は? ちょっと待って、事務所ですよ? 半年振りのオファーなんですよ? バイトは今日入ったじゃないですか」

「どうしても休めないんです」

「チバさん声優なんだろう」ミズキが声を荒げた。当然の叱責だった。「ふざけてんじゃないよ。アンタ声を当てたくて業界入ったんだろう。あんた面接で、キャラに本気で命を吹き込みたいって社長に啖呵切っただろう。あれ何だったんだよ。なんで牛丼屋なんだよ。ファンに声を届けたいんだろ。そのためにキャリア捨てて芸能界に入ったんだろ。それ反故にするのかよ」

 チバは目を閉じて、三秒きっかり待った。ミズキの叱責はまだ続いているし、自分の声優としてのキャリアが終わりかけていることもわかった。おそらくは人生をドブに捨てたこともわかった。まるまる実感しきるのに三秒必要だったのだ。そしてミズキの叱責は正しいし、自分の声優としてのキャラを潰した積りはない。ただ、この雑居ビルでのほうが、良い仕事ができると思っただけだ。

 チバは目を開けた。

「もう牛丼屋はやめたんです」

「はっ? おいチバさん、ちょっと――」

 チバは通話を切った。心臓の動きがおかしい。チバは体の異常を無視して駅へ向かうと、人でごった返す地下鉄に乗って三十分揺られて、降りた先で乗り換えた。アパートまで一時間ほどの道のりで、その間ずっと動悸が続いていた。

 スマホはもう鳴らなかった。

3


 次の日。午後一時にはチバは雑居ビルの前に立っていた。約束の時間までは一時間残っているし、『カーリーワイズ』のオーディションは三時からだ。もしいまからタクシーに飛び乗って、外神田まで向かえば、オーディションを受けられるかもしれない……と雑念が湧いてきて、チバは首を振った。

 もし悪夢のような夜があるとすれば、それは昨夜だった。コンビニの弁当を食べて風呂に入ってから、チバはつくづく自分の人生に嫌気が差した。浴槽に浸かった途端に絶望感に襲われ、膝を抱えてうずくまった。のぼせるまで風呂に入り、ふらふらの体で着替えて惰性でスマホをつけたら、動画サイトに【エグすぎ! あの声優は十人以上の声を使い分ける】とサムネイルが出てきて吐き気がこみ上げてきた。チバが知る限り、《あの声優》は国民的アニメに何作も出演し、ゴールデンタイムの番組にレギュラー出演している。車を次々と買い換えるのが趣味で、よく動画サイトにアップされている。もちろん仕事ぶりは華々しく、映画出演から実写ドラマまでなんでもありだ。SNSで検索すれば《あの声優》に関するツイートは多く、フォロワーは数十万人を超えている。大物作家が直々に仕事のオファーに来るとか、映画監督から接待されたなどのニュースが配信されている。

 たかが声で、と嫉妬心が沸き起こったが、そこで自分の立場に思い至ってとうとう吐いてしまった。ゴミ箱が近くにあって良かった。

 チバは昨夜ほとんど眠っていない。眠れなかったのだ。動悸は治まったが腹痛がひどくて、ここに来るため胃薬が必要だった。

 時間は空いているし、どうせオーディションを蹴ったのだから、少しはマシな仕事がしたい。チバは喫茶店を探し、入るとコーヒーを注文した。手提げカバンからノートと筆記用具を取り出す。

 朗読用の台本は昨日、帰る時に大男に返してしまっていた。資料がない状態なので、覚えている限りの台本を書き起こす。それに昨日は、午後二時から八時までの長丁場だった。休憩を入れても五時間強は働いていたから、メモする点は多い。「仕事が終わったらすぐに反省会をするんです」とミズキから口を酸っぱくしていわれていたことだ。記憶が鮮明なうちに、収録での改善点と良かった点を洗い出すのだ。夜中まで事務所に詰めて、ミズキと売り物にできる長所と短所をああでもないこうでもないと議論をしていた頃が懐かしい。

「ラー・シゥワーズ・シゥワーズ……」チバは呟きながら、コーヒーを片手に黙々と書き起こし始める。一日経って発音がこなれてきた。

 細かい部分をはしょりながら書き写し、思ったことをメモしていく。

(男は自分に何を期待しているのか?)

 わからない。「優しげな声でお願いします」といわれたが、それ以外の注文はなかった。あれならば他の声優がやっても同じだったのではないか。そもそもどうしてチバに仕事が来たのか?

 連絡が来たのは一昨日だ。自分のスマホに直接連絡があった。連絡先は偽名みたいな表示で、検索してみたがやはりヒットしない。いま思うと、詐欺まがいの連絡にほいほい乗った自分もどうかしていたが、だが日当五万円は飛びつくのに十分過ぎたのだ。実際に封筒にはピン札が入っていた。

(自分は何を演ずるべきか?)

 これもわからない。相手がキャラクターならば想像できるし、番組のナレーションなら前後の文脈から推察できる。だが今回は、脈絡もへったくれもない文章を渡されたに等しい。男の声か、女の声を出さなければいけないかもわからないのだ。大男に詳細を詰めておけばよかった。

(演じる相手はあの老婦人で間違いないか?)

 これは正しい。相手は大男ではなく、婦人だ。あれを読むことによって、老婦人は血を吐き、嘔吐し、悶え苦しんだ。チバの脳裏に、昨夜はつとめて考えまいとしていた事柄が蘇る――老婆の苦しみ、異常な様子。昨日はスルーしていたが、やはりあれはただ事ではない。チバが知らない事柄が起きているのは間違いない。もし朗読中に……たとえば、ビルの管理人か用務員が現場に現れたとしたら、どう思うだろうか? あるいは、警察官と一緒に来たとしたら?

 チバは書き写した文章を見下ろす。文章からも不穏さが漂うようだ。

 腹にまた差し込みが襲ってきた。「くそ」と呟いてチバはトイレに向かう。出るものはなくても痛くなるのだから嫌になる。

 チバがトイレから出ると、対面席にあの大男が座っていた。

4


「ああ、チバさん」と大男はチバを見て顔をほころばせた。腹痛を隠すためにゆっくり戻ってきたチバに笑顔を向けた男は、所在無げに己を見ていた店員に「コーヒー追加で」といった。

 チバは席につこうとして、改めて大男を見た。座っているのにチバと背丈が同じほどだ。身長は二メートル以上あるだろうか。大柄というより、巨大な樹木を想像させる見かけだった。

「すみません、仕事の準備をしていまして。まだ時間に余裕があったので」チバは考えを振り払って自分の席に戻ると、腕時計を見た。約束の時間まではだいぶ残っている。「休憩中ですか?」

「ええ。ところで、それ」大男はチバが書き起こした文章に目をやった。ノートを見た途端に表情から色が抜け落ち、睨むようにチバを見た。「ご自身で書かれたんですか?」

「はい。なにかの資料になると思って」

「あの台本は部外秘なんです」大男は言葉を遮るようにいった。「わかりますか。外に出してはいけないんです」

 チバはキョトンとした。

 沈黙が流れたが気まずさがあった。何か失敗したか? と思っていると、大男は「その文章は部外秘なんです」。

 ようやくチバは、このノートを仕舞うように求められているのだと気づいた。チバがノートをカバンに片付けるのを見て、ようやく大男はチバに目を戻した。チバが口火を切ろうとしたところ、大男のポケットから着信音がした。

「失礼」と大男は座ったままスマホを取り出す。毒々しいほどの緑色で、それを躊躇いなく耳に押し当てている様が気持ち悪かった。電話を受けた大男は「はい」と何度か繰り返し、チバにスマホを差し出した。

「あなたのマネージャーからです」

 チバは困惑してスマホと大男を交互に見た。突然のことに反応ができないが、男は更にスマホを突き出したので、受け取らざるを得ない。スマホを耳に当てたが微かに男の体温が感じられて肌が粟立つ。

「チバさん、先に仰ってくれれば良かったのに」スマホからは紛れもないミズキの声がした。どことなく声が早口だ。「昨夜はあんなことをいってしまい、本当に申し訳ありません。社長には私から話しておきます」

「ええ、はあ……?」

「サイトウさんは今回の件についてご承知ですから、オーディションの件はこちらで処理します。今週のスケジュールはミヤモリさんでいっぱい、ということですね」ミヤモリ――眼前の大男のことか。大男は自己紹介でそう伝えた(たぶん偽名だろう)。ミズキが甲高い声で笑い声をあげた。「経費が出たらちゃんと申告してくださいよ。レシートも出してくださいね。後で首が回らなくなるのは私ですから」

「ああ、はい、すみません」チバは形式的に謝った。頭がついていかないままミズキと幾つか会話して、それで通話は終わりになった。チバはスマホを大男に返す。

「どういうことですか?」

「私には友人が多いんです。友人は、私が話を持ちかければ、すぐに動いてくれる。ここはゴミ溜めですが、なかなか快適な方だ」大男は話を途中で切り、ゆっくりと鼻を嗅いだ。「この世界はやはり臭いですね。どれほど取り繕っても所詮はゴミ捨て場です。私にはとても住めない」

 チバが大男を見つめていると、ゆっくりとコーヒーをすすりながら大男がいう。

「私はこの世界にゴミを捨てに来ました。我々の世界では捨てられないゴミです、そのためにあなたの助力がいる。実際は誰でも良かったんですが、サイトウさんはあなたを推された。だからあなたにした」

「プロデューサーとあなたにどういう関係があるんですか」

 サイトウはチバがオーディションを受ける予定だった『カーリーワイズ』のプロデューサーだ。他にも幾つかのヒットしたコンテンツに名を連ねる敏腕プロデューサーで、業界での仕事ぶりは人気が高い。

「サイトウさんの自宅にはゴミ……ああ、死体が三体ある」大男はいい切った。「法律に照らして、自宅に死体を置くのは良くないことでしょう? 我々は種族柄、そういうものによく鼻が利きます。直にお伝えしたら、彼は快く協力してくれました。友人はそうやって作るんです。まさか自分から身の回りをゴミ溜めにするなんて狂気の沙汰ですが、まあ、この世界はそんなものなのでしょう。いずれにせよ、彼らはまあまあ快適な生活を保証してくれる。

 それで、私は朗読をしてくれる人材をサイトウさんに尋ねました。彼は快く、あなたの名前と番号を教えてくれました。あの雑居ビルも、実際にはサイトウさんの所有物です」

 直感で、自分は生贄にされたのだとチバは理解した。おそらくサイトウと大男はズブズブに繋がっているが、プロデューサーにはまだ逃げ切る算段がある。だから自分のような木っ端で、オーディションに落ちるような声優を紹介したのだ。サイトウのような男が本気になれば、チバの個人情報くらい幾らでも漁れる。つまり、死ぬとか行方不明になっても構わない奴を紹介した。それだけの理由だったのだ。

 チバはまだ大男も仕事も微塵も理解していない。いっている単語がわからない。だが大男は、チバの全てを握っている。その事実をいまさら理解した。ここで手を打たなければ、チバは文字通りあやつり人形になる。行き着く先は破滅だ。

 チバはコーヒーを飲み干した。

「いくつか質問しても構いませんか?」

 大男はゆっくり頷いた。まるで小学生の質問に答える様子だった。

「では、あなたのいうゴミ出しとは何ですか? 昨日、女性を苦しめたことにそれは関係するんですか? あの朗読は何のために行うんですか?」

「あの朗読文は呪文であり、あれは私の母です」

「はっ?」口に出してしまってから、チバは口を閉じた。「続けてください」

「あなたが昨日読み上げた文章は呪文です。具体的に言えば、我々が作り上げた殺傷呪文であり、誰かに代読して頂く必要がありました。あなたへの仕事は代読です。呪文の読み上げ。昨日のうちに読み上げて頂いた内容は二十ページですが、全部で百ページあります。つまり合計で五日間、朗読を続ける必要がある。朗読が完了すると、ようやく対象……母は絶命します」

 チバは目頭を揉んだ。謎解きに別な謎をぶちまけられた気分だが、とにかく聞いて理解しなければならない。大男の先を読むのだ。

「なぜご自身の母親を呪文で殺す必要があるんですか」

「彼女は我々の法律に則って死ぬ運びとなりました」大男は、チバが聞き取りやすいようにゆっくりと発音した。「母の年齢は二千七百歳を超えています。我々の平均寿命は長いのですが、それでも二千歳が頂点であり、死も生臭くありません。が、時折、我々の種族では突然変異的に超長寿の個体が生まれることがある。そして我々の種族が二千八百歳を超えて生きている場合、例外なくカタストロフが生じます。大変に有害で、このせいで何十万の生命が巻き添えを食った」

「カタストロフ?」

「この世界でいえば、大爆発ですな。これまで二千八百歳まで生存しきった個体は数名観測しています。元皇帝と摂政、それから禁忌薬を飲み続けた賢者と、法律を拒否して山に籠もった占星術師です。王族は王都で爆発し、周囲二十ローグ……失礼、二十キロを爆発に巻き込みました。二度爆発したわけですから、二度遷都する羽目になりました。法律を作るには十分すぎる理由だ。山は地形が変わり、遺跡は崩れた」

「……少し待ってください」チバは言葉を切った。整理しようと務める。話の内容は置いておいて、もっと大事なことがある。チバの頭をかすめた光を、なんとか言葉にした。「あなたは人間ではないんですね? ええと……私達のいう人間ではなく、別の種族で、異世界から来たと」

「その通りです。私は《ガリ》という種族で、氏族ではラルバスに属します。まだ聞きたいですか?」

「いや、それは十分です。それより、どうしてこの世界で殺すんですか。どうして代読が必要なんですか?」

「なぜなら、我々の世界で殺傷呪文は禁じられているからです。殺傷呪文を使う場合のルール一。ここで使うな、他所でやれ。失敗すれば大惨事になりますからね。我々はゴミ捨て場――この世界でいう姥捨て山となりうる世界を、幾つか確保している。この世界もゴミ山の一部に過ぎない。私はこんな臭いところを抜け出して、早く自分の世界に帰りたいんです。ルール二。本人が読むな、他者に読ませよ。我々は遺伝子レベルで呪文を口に出せません。運搬のためにゴーレムを利用するくらいです。ですから、現地の友人を用意する必要があります」

「その友人が、私とサイトウさん……ということですか」チバは絞り出すように口にした。

 大男は微笑んだ。せせら笑っているようでもあった。

「そうです。ルール三。己は手を下すな、友人に下させよ――友人があらゆる報いを受けるために。そして私は悠々と、一人で自分の家へ帰る。ゴミを捨てて手ぶらで」

「あんたは人でなしのくそったれ野郎だ」チバは無意識に口にしていたが、今度は口を閉じる気はなかった。「他人を利用して家族を殺す畜生だ。地獄に落ちろ」

「そういう種族なんです。ご愁傷さま」

 チバは目を閉じて息を吐いた。浅い息を少しずつ深くして、ストローのように息を出していく。養成所でチバが身につけた、落ち着くためのテクニックだ。大男は微笑んだまま、チバの出方を待っている。

 息を吐ききると頭に血が巡ってきた。

 大男がいったことはさておいて、このまま仕事をすれば、あの老婦人は遠からず死ぬことになる。つまり、殺人の共犯だ。状況によっては主犯になるかもしれない。

 しかしチバの人生はもともとどん詰まりだった。連絡の食い違いで間違えて届いた『カーリーワイズ』のオーディションを受けたら、チバは受かったかもしれない……落ちたかもしれない。もうチバは二十九歳だ。実家は縁が切れて久しい。半年前に母が亡くなったが、ちょうどその時、数少ない声優としての仕事が入っていて、参列していない。退路はないのだ。

 それなら、泥をすすってでも、他人を傷つけても、生き延びられる道はないだろうか。

 ある。必ずある。人生を進んで棒に振ろうとしない限り、道はある筈だ。這い上がる道があり、どん底から脱出できる道がある筈だ。

「仕事を引き受けます。ただし、私からも条件をつけます」チバはいった。

「殺人は違法です。依頼が完了した暁には、特別手当を出していただきたい」

「おいくらで」

「百万円。家賃も怪しくてね。当面の生活費です」

「いいでしょう。他には?」大男はチンケな誘いを耳にしたように笑った。いや、おそらく彼にとってこの程度の金額は本当にチンケなのだ。ならそれをとことん利用する。

「サイトウさんに仕事をねじこんで欲しい。種類は……なんでもいい。『カーリーワイズ』関係でも別な仕事でも、とにかく向こうがオーケーを出すものを片っ端から私に寄越してください。腐っても声優だ。声に関する事ならなんでもやる。あなたの別なご友人にも是非ともお尋ねください」

「朗読が完了して、後始末を終えれば私はここを離れる。そうしたらサイトウさんはあなたの言うことを聞かなくなりますよ」

「それでいいです。とっかかりさえ掴めば、こっちで勝手にデビューします」

「ずいぶん開き直りましたね。では、交渉成立ということで」

 大男は手を出したので、チバは握手した。時間はもう五分前。朗読が始まる。

【続く】


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