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とりあえず

 さいきん、人とのLINEで「草」しか使っていないのでまともに会話が成立している気がしない。もはやクリシェとすらいえないコミュニケーションの放棄なのだが、はなからまともに言葉を交わすつもりがないのではなく単に疲れているからだ。昨日も当たり前のように親指をコイントスの要領で上へ跳ね上げると、わずかにあてが外れたのか、「ぬさ」と打ってしまい、予測変換には「幣」といかがわしい一字が浮かんだ。
 子どもたちには当たり前のような顔をしてテストを課し、その例語は十中八九の「紙幣」。「弊」と間違えないようになどと口酸っぱく言いはするが、実際のところほとんど生活に役立ったことがない。というかきちんと書けるのかすらあやしいのが正直なところだ。左上の縦棒は横を挟んで一度切るのか、あるいはつながっているのか。直通運転だらけの首都圏の鉄道を思わせる。それでも救いなのは、そんな「幣」の一字を見て、きちんと菅家の歌を思い出せたことだった。

このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

言うまでもない、小倉百人一首に取られたこの一首は、大学者であった菅原道真にとってみれば、むしろおどけた感じを受ける。
「たび」には「度」と「旅」が掛かっている。つまり「この度の旅」ということ。所収の『古今集』詞書には「朱雀院の奈良におはしましける時に、手向山にて詠みける」とあるから、旅はもちろん帝をお連れしてのいわゆる「御幸」ということになる。高雄から降りてきた秋は古都を染め上げ、ひいきの歌人たちを連れての観楓の旅路はさぞかし華やかなものであったろう。
 幣というのは、旅行の際道々に祀られた道祖伸に捧げる切り紙あるいは麻で、一説には稲妻を模したとされる。つまり「紅葉の錦」は鮮やかに「にほふ」紅葉の美しきを豪奢な錦織に見立て、それをあたかも「幣」の代わりに捧げることで、「神のまにまに」、つまり神の思うままそれを愛でてもらおうというのである。
 巧みな一首である。
 しかし、じつは掛詞や見立てそれじたいに目を引くものはない。幣という語の引き出す古代への憧憬がかすかに香るが、道端の朽ちた小さな石像はその前を通る帝の威光の前にはあまりにささやかにすぎない。いわば、甲州征伐からの帰り、富士遊覧で信長をもてなした若き家康がそうであったように、作者・菅原道真が「さあご覧にいれましょう」と澄んだ秋空にもろ手を挙げて、自らを用いた帝に名高い手向山の紅葉を御覧に入れた——その取り合わせとしての即興歌、つまり御幸という最上級の接待を彩るのがこの歌であったわけだ。
 菅家もとい菅原道真をめぐって、僕らはきっと少し考え違いをしているのだろう。思うに、彼は僕らが想像しているよりずっとずっと「気さく」な男だったのではないか。
 生前は文字通り右に出る者なき賢臣として寛平の治を支え、非業の死を遂げては宮中にさえ雷を落とす、まさに天をも恐れぬ大怨霊そして天神となってしまったがために、今や彼はあまりに「人間離れ」してしまっているが、本当のところ彼が伯楽の目をくぎ付けにしたのは、その学才もさることながら、上の歌にみられるような彼の「気さくさ」なのだ。
 思えば邸の梅を左遷先の大宰府にまで飛ばしたような男なのだ。幼いころより親しんだ漢学はいわば政界での成功を叶える公的な知であって、それゆえに仮名に開かれた歌の中での彼は(あまりに)のびのびとして見える。
「とりあへず」をめぐって、先説にしたがって「紅葉のあまりの美しさの前では捧げることができない」とするとあまりにわざとらしい。哭き女のようないじましささえある。しかし、これを「たび」の掛詞を頼った別訳を採ると政治家としての彼の本領が立ち現れる。
 —あまりに急なこの度の旅なので、捧げる幣も用意ができませんでした。その代わりといっては何ですが、この手向山の紅葉をお供え物として、目に楽しんではくださいませんかー
 有能な役人であった彼が持参すべき供物を忘れるはずがない。いわば彼一流のジョーク、それが「とりあへず」という語の真意だ。
 まさか「ビール」が続くはずはないのだが、それすら連想させる、してもいいと思わせるほどのいわば「無礼講」の雰囲気は、華々しい御幸の場であればこそふさわしい。おそらく忘れてはいないはずの幣は誰かに持たせたまま、大げさに自分の鉢をたたいての大立ち回り。狼狽する従者の困り顔が目に浮かぶようだ。朱雀院もまさかそれを真に受けて咎めなどしまい。それを知ってあえて低みに出るそのしたたかさは、しかしそれにかかわる人に不快を催させるものではないとは思うのだが、あるいはそのあまりの切れの良さを時平は恐れたのか。

 同じ科の先輩に「気さく」な人がいる。あるとき、課された仕事を半分ほどの進捗、かろうじて形になったものを差し出して、それを見た主任がおどけて「君は外に立っておきなさい」と言うと一言、「立っておくだけでいいなら立っておきます」とさわやかに笑った。こう文面に起こすとあれだが、その二枚目も手伝って、日の忙しさに目を回していた方々もふと手を止め、まあ大笑いに笑った。長い日の疲れを忘れるように場は花やいだ。
 うしろめたさもあとくされもない、それは何の実も結ばないあだ花のようなやり取りだ。しかし、その返しの文句の巧さはともかくとして、その一言は、何ら後患の憂いなく、ほんのひととき自らが携わる仕事の気安さを思い起させるだけに万金に値する。さあさあといって椅子につかせ茶を注いだのではあまりに大げさで、おしつけがましい。むしろ当意即妙の一手をもって場を和ませる者の才覚は、あるいは博覧強記それよりも「有難い」社交人の資質である。

 そんなことを思いながら職場を出て通りに出たとき、思わぬ月の明かるさ声が漏れた。そうだ、朝会の終りごろ、諸連絡が尽きたとみた部長が一言、「今日は中秋の名月です」とこれから課業の始まろうといういわば一日の中でもっとも張り切ったその場を和ませたのであった。それを思い出したのだ。
 なんという時間差、なんという予言――まさに月とこの星との距離を泳ぎ切って届いた「気さくさ」だ。そんな大切なことを、僕は仕事にかこつけて忘れようとしていたのだ。

 部屋から見える中庭の、生え放題の雑草を眺めながら、これから凋落に向かおうという季節に刈り取ってしまうのはあまりに忍びないと思う。「草もとりあへず」としてみたが後には続かず、苦し紛れにあかあかや…と呟いていた。

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