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16(6(6(6( ③

「ふうん、それ、いつやのん」
「兄さんは来月から、やねんて。そんで、とりあえず兄さんだけ先行って、住む家探しといてもらわなならんよってに」
「ネットじゃあかんのん」
「私はそれでええんやないの言うたんやけどね、どうしてもこういうんは直接見なあかん言うて」出された水には手も付けず、どしどし話を進めていく若い女子学生らのうち一人が、思い出したように形だけメニューを開くと、相方に聞いてみることもなく、白い首をスッポンのように伸ばし「ブレンドふたつぅ」とカウンターの奥へ声を張った。
 キジュは、冷めたカフェラテの泡がカップの内側に苦い喫水線を引いたのを見、窓際の二人からあわてて多恵子に向き直った。多恵子は変わらぬ微笑みにそれでも少し非難がましい色を差し、硝子の灰皿の縁を指でなぞりながらどこやったっけな、と分かるようにつぶやいた。
「そやった、図書カードの話」
「ああ、うん、そう。蒔岡さんも買ったの?結局」
「ふん」多恵子は革のバッグから同色の財布を取り出すと、銀の地に紫のラインの入ったカードを抜き取り、キジュの手元に差し伸べた。
「学生証そっくりやろ」
「ほんまやわ」しまったと思い顔を上げると、今度はまた知らんぷりをしている。要領を得ないまま深く呷ったカップの底に、青く染め付けられた五枚の花弁が一瞬覗いた。
「遠山の花…」聞かすつもりで言ってはいないその先を、見せてはいないはずの見込の桜を、多恵子は「残んの雪かと見えて」と補い、片頬にのみつけた笑窪よりは白い泡髭に気づいていないのが愛おしい。
「ねえ、綺麗だったよね、御室の桜」
「ほんになあ、二人ともさらのお洋服卸して」それからしばらく、一回りもしようかという昔話に花を咲かせた二人だったが、隣の卓から聞こえたシャキン、というジッポの涼しい音は、二人どころか狭い店じゅうの客の視線を一挙に集めた。しかし彼女は構わず、赤マルに火を付け、つぶした紙箱と剥がれたセロファンの欠片とを灰皿に乗せた。
「それがなあ、ほんまに突然やねんわ。兄さんかてなんにも聞いてえへなんだ言うてはるぐらいやねん」
「来月とはえらい急な話やない。こっちの家はどないするのん」
「どないしてええか、まだちょっと考えてえへん。あのこともあるし―」先ほど注文を言ったすっぽんの子はそこまで言ったところで、窓外に何か気にかかるものがあったのだろう。声を低め向かいの子に何か囁いた。
 新しく入って来た一人の背広が、窓際の二人の席に椅子を持ち寄り窮屈な相席を強いたのは、そのすぐ後―入口のベルが鳴りやむまでのことだった。

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