翻案 「自首」(蛙亭)

面白かったコントの翻案です。


 南方の山を駆け降りた雲は俄に街を覆い、鈍色は永い梅雨の空である。岩倉は手許に寄せた帳簿を棚に戻すと、猫のように大きな伸びをし、しかしその日の当直の暇であるらしいことは陰に潜む私の目にもすぐに見て取れた。
 無風である。岩倉はベルトに吊った遺物の重みの革包みの冷たさを掌に触ると、中は開けず、常に開かれている戸の敷居を踏み越え外へ出た。
「へいわ、へいわ、へいわ」習いたての唱歌は乾いた唾の匂いがする。教科書には黒塗りの教科書の写真が載っている。彼女がそれを「懶い雨降りだ」とするのなら、しかしそれはひと月もせずに南風に追い払われるところのほんの短かな季節であることを知っているからにほかならず、卯木の香りも既にないその根元に据え付けられたベンチの上に、若い母親が赤子のおしめを取り換えているきりだった。母親はおそらく岩倉と同い年かそこらだろう。もちろんそこはマロニエの路などではない。駅前の小さな花壇―花はない―のほとりに、空隙を囲むように向かい合ったロハ台が、雨ざらし風さらしのせいでひどく脆くなっているのを、母親は背に木屑の付くのも厭わず片手に開いた我が子の股の間を濡れティッシュで拭うのだった。それがささやかな広場の全景だった。
 翳る中に戻ろうというとき、岩倉は背後に一対の靴音を聞いた。彼女は肩越しに耳をそばだてた。しかし、ここで私は付け加えねばなるまい。岩倉、そして私の聞いたその音は、靴というよりも濡れた頭陀袋で路面を殴りつけるびしゃり、びしゃりという音だったのが、それがこちらに歩みとしか取れない規則的な反復のうちにしだい近づいてくるがゆえ彼女は「靴音」と言ったのだ。彼女は腰に手を添え素早く振り向いた。旋回するその肩が生温い柔風を切った。

 「自首をしに来たんです」男の名は中野といった。中野は長い前髪の庇のように眼差しを遮るのを弱弱しい笑いに誤魔化し、事務机のゴムが剥がれかかった継ぎ目をしきりに指でなぞった。
「あの、まず落ち着いてください」岩倉はよっぽど裏に回って茶でも淹れてこようかと思ったが、眼前の男が「自首をしにきた」という以上、一人任されているこの場をたとえ一時であっても離れてはなるまい。岩倉は中野を椅子に掛けさせ、自分も座った。
「どうしたんです。自首なんて」岩倉はなるだけ穏やかな声色を差し向けた。
「お巡りさん、僕を逮捕してください!僕は、僕は赦されないことをしました…」中野の話は一向に要領を得なかった。
「だから、貴方が何をしたっていうんです」岩倉の声は苛立った。が、まさかそれだけで彼を取り締まれる筈はない。岩倉の胸にはむしろ一種の仄明い興味が兆した。中野のシャツの肩はぐっしょりと濡れていた。
「僕は…花と、花と××××をしたんです」俯いたまま中野は言った。帳簿に走るペンの音が止まり、息を飲む音さえ聞こえなかった。いつ降り出したのか、白い線の雨に窓外の靄る午は悠然とさえ思えた。
「すみません…」岩倉は結局茶を淹れてやった。目の端に彼の濡れた撫で肩を捉えながら、彼女は湯を沸かし、その間中ずっと、先刻の話について思いを巡らせた。尾を掴もうとする度に身体をくねらせる滑っこい蛇や、あるいは醒めてしまった夢の枕に匂いだつモノクロの抜け殻の同じく、中野の話は、勿論その全てがと言う訳ではないにしろ、理解に苦しむものだった。
「茉莉花茶を、こうひと思いにぐっと飲んだりしてみると、丁度今外に降っている、夏雨を集めて呷ったときのような、なんだかそんな味がしませんか」岩倉はそんなことを言った。中野は只吽々と頷くのか唸るのか分からない声をし、時折鼻をすすった。
「庭に咲いていたんです。白い紫陽花…」中野の言葉はついぞ二人の間にまろび落ち、私はつい、「ああそうか」と声を漏らした。が、二人はそれに気がつかない。
「もう何年前になるでしょうか…」中野は語り始めた。
「一目惚れでした。端午の節句も過ぎてしばらくした頃、あの蒸し暑い春の日、僕は初めて彼女を見つけました。家に棲む家族のうち、それに一番早く気がついたのは僕だったでしょう。だってきっとそうに違いありません。その日家族は皆僕を置いて親類の葬式に出払っていましたから…」交番の表を二台の黒い車が猛獣のように駆け抜けていった。岩倉は、中野が独り過ごした通夜の晩のことを思いやった。
「それから、僕は何度も何度も彼女に愛を伝えました、伝えたつもりでした、でも!彼女は振り向いてくれませんでした…彼女は、まるで檜垣の向こうでたけくらべを競った幼馴染のように、ものも言わず、赤面する僕の顔を只慰めるように見つめるだけでした。けれど、僕が欲しかったのはそんな愛じゃなかった…」
「白い紫陽花」岩倉は何かを思い出そうとするかのように、口の中で何度かそれを繰り返した。
「そんな折でした。僕が紫の紫陽花を見つけたのは。いえ、彼女が僕を見つけたといった方が良いかもしれません。紫色もまた綺麗でした。だんだらになった花弁の滲んだ色は、僕の胸の底を染め抜きました。僕は当然、はじめは肩に置かれたその手を払いのけようとした。けど、けど!彼女は、行き場のない僕の恋情をまるでそれが自分の醜さであるかのようにすべて受け止め、それから笑いました。寂しく、誘うように笑いました。僕が彼女に何をしてやれたと言うでしょうか!…分かっています、これも僕の卑怯な弁解に過ぎません」中野は唇を湿らせ、なおも続ける。
「…紫の紫陽花が咲いたのは、初めて会ったのは古井戸の傍でした。みるみるうちに大きく育った花叢は、そのあえかなる見た目とは裏腹に、地味の一番肥えた辺に深く根を張り、枝はその顔に似つかわしくないほど逞しく、葉は厭らしいほど繁り、あたかも庭じゅうの養分を吸い尽くすかと思われるほどでした。重たい花序は、風が吹くたびにもはや使うことのなくなった釣瓶を撫ぜ、それがぎしぎしと鳴る夏でした。彼女はいつも水を浴びるのが好きで、僕が如雨露を持って彼女の頭の上に傾ける度、鮮やかな髪飾りを揺らしてくすぐったそうに笑いました。それから、その青く湿った瞳を僕に向け、もっと呉れろと言うのです。言葉にはしませんが、僕にはそれが分かりました。だから、だから…」
「貴方は、じゃあ紫の紫陽花とは後から出会って、それなら何故」
「白い紫陽花が咲くのは、毎年決まって庭の北の隅でした」中野は環も嵌めていない指を中空に透かして見、その先で見えない蜘蛛の糸を手繰った。
「日の当たらない、打ち遣っておいた畑の土をただ盛っておいたその上に、忘れられた百葉箱のように、彼女はいつからか棲みついていたのでした。白く、ぼんやりと、まるでそれは花の幽霊のようでした。紫の紫陽花とは何もかもが違った。それでも、いやだからこそ、彼女には僕と紫の紫陽花とのことが全部見えていたでしょう。ねえお巡りさん、紫陽花が如何して赤かったり青かったりするかご存知ですか」
「いえ…」
「pHの値に依るんだそうです。酸性が強いと青く、アルカリ性が強いと赤く」
「じゃあ、白い紫陽花は」中野はそれには答えず、ただ微笑を張り付けるばかりだった。
「それでも愛してしまった。だから、彼女を責めることはできません。たとえ彼女が我が家の、いえ僕の色には染まることのない亡霊であったとしても」中野はそこまで話すと湯呑の茶を澱までまで干し、湿ったリネンの裾を伸ばした。
「僕は何度も何度も交わりました。家の寝静まったころ、鎖した戸を静かに開き、ねえお巡りさん、夜霧に濡れた土に素足を下した時の、どんな冷たいことか」
「ああ…」
「白色の紫陽花が僕と紫とのことを全て見ていましたし、二人ともそれをわかっていました。いえ、紫は賢い子ですから、僕が彼女のうちに白い亡霊を抱いているのだということさえ見透していたでしょう」
「そこまで分かっていてなんで!」岩倉は思わず腰に手を当てた。革包の冷たさにはっと驚いた。
「白い紫陽花の花言葉は『寛容』です」中野は食指を折り曲げその先に口づけた。あの花に棘などあったろうか。膨れた血の玉がおぞましい赤色だった。
「中野さん」岩倉は勢いよく立ち上がり、机に手を突いた。
「貴方を逮捕することはできません。お帰りください」その声が情けなく上ずっていた。
「或は無意識の復讐だったのかもしれません」中野も立ち上がり、天井に迫るほど高い背丈といかにも男らしい図体の圧迫が、差向った一人の婦警にうそ寒さを感じせしめた。

「中野さん」二人は既に明るみの中にいた。
「紫の紫陽花にも謝ってあげてください。彼女もきっと傷ついているだろうから」中野はあいまいに頷き、それから省線の駅の方へと消えていった。

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