国会前で息をしよう

国会前で息を吸って吐くだけのデモをしたい。

最近、考えたことだ。デモと言えば、感覚的に、歌ったり、騒いだり、叫んだりという音を出すことで、自分の表現をし、主張をするものという印象がある。

実際に私が過去に参加したデモは、沖縄の辺野古新基地建設反対デモに一回と入管法改悪反対デモに数回だ。集会も何度か参加した経験がある。

やはり道を歩いて大きな声で叫んだり、シュプレヒコールで表現をしたり、周りの人たちと「共にある」ことを実感できるような時間ですごくすごく励まされる。

しかし、デモはそうではなくてもいいのではないか。最近、ジュディスバトラーの本を読むようになった。『アセンブリ』という本の中に以下のような言葉がある。

”集合した身体は、たとえそれらが黙って立っていようと、私たちは使い捨てにできるわけではないと『語っている』のである。この表現の可能性は、依存と抵抗によってし付けられたものとして理解すべき、複数的で身体化された行為遂行性の一部である。”(『アセンブリ』p27)

そこに存在し、集合することこそがデモや集会の本質なのだ。
だからこそ、国会前で様々な属性の人たちが集まり、呼吸をすることも政治的なのではないかと考えた。

国会という国家権力を前にして、国民が息をする。
生きていることを主張する。
存在していることを示す。

それこそが、当事者や「生」を直視しない政治に対してできる最大限の訴えであり、表現になりうるのではないか。

さあ、国会前で息をしよう。

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