被害者になるのと加害者になるの、どっちが先なのか。

性犯罪のニュースのコメント欄、10年前より、私も子供の頃に…ってのを見受ける。
未成年の小児性愛者(ショタコンもロリコンも)のことも大分認知されてる。

被害者が一生モノのトラウマ、心的外傷を抱えるって言説がそうだとして。
過去の被害者が現在の加害者になってるって可能性はあんまり考えられてない。

小児性愛が望ましくない性指向だとして何がそれを生むのか、ってことは専門家でもない一個人が言及していいことじゃないって大多数の無言の合意があるのかもしれない。

過去に異常者扱いされた特性も、現代じゃ多様性の一環に含まれてたりする。

これから起こされていくのは、小児性愛者の迫害をやりすぎることだと思う。

自分の子供が小児性愛者だとわかった時、癌細胞を切り離すように子息を勘当していくのだろうか。

はたまた正義のために我が子を殺すのか。

命を奪うのはやりすぎだとして、だったら小児性愛者を性犯罪に駆り立てるような、はけ口の無さを社会のシステムエラーとして認識する勇気を持つ者はいないのか。

ニュースの中の『メディア』という別世界の存在に照準を合わせて、その存在を『適切な加害者』に設定する。

自分の人生の中で出会った心優しい人が、実は小児性愛を抱えて苦悩してた、とか、そういうことに想像を働かせてみてほしい。

加害者として適切な存在がいるってこと自体狂ったことだ。

誰もが赤ん坊で生まれてきて、それぞれの幼少期を経て、現代の中の健全な性指向を持つ大人に育ったり、現代の中の異常な性指向の持ち主に育ったり。

性善説、性悪説なら、対立するけど、『被害者と加害者、どっちが先なのか』ってことに俺はフォーカスしたいし、関心がある。

被害を受けるのが先で、その被害を相対的に小さくするために、もっと言えば一般化するために、加害者になるのか。

加害者になるのが先で、その人は人の油断をついて悪意に目覚めるのか。

前者だとしたらどうだろうか。

今、ネットニュースのコメント欄くらいの匿名性の中で自己主張をしてる人たちの多くが望む、犯人への厳罰。

厳罰を与えたところで、例えば死刑にしたところで、被害者は残るわけだ。

前者の被害者が先で自分の身に起きたことを世の常と定義するために加害者になるのなら、厳罰は次の加害者の発生を未然に防いでることにはならないのではないだろうか。

それを大雑把に「心のケア」とか言ってくくるのは誤魔化しじゃないか?

「心のケア」というものが存在するのなら、小児性愛者が犯人になる前にしてやればいいじゃないか、とすら思うが、小児性愛者を割り出すこと自体が個人の心を侵害することかもしれない。

とかく、自分の人生の中で敵対するものとしてだけ小児性愛者を認識するのはどうなのだろう。

同じ世界で生きてるのに。

なお、自分は10年前の27歳の頃から数年に渡って小児性愛者を犯罪者にしないための世界観を考えていた。

児童ポルノがあれば各自が自制するんじゃないかとか思ってたけど、確かめようがない。

それに発信を始めてから10年経って俺も4月で37歳になる。27歳のロックかぶれの闘争心は今の自分にはもう無い。