外側に向けての行為が自分の内側を作っていた、ほんとは内側から外に現れる方向性なのに。ってことを思った。
いつのまにか始めてしまった世界を変える作戦。
世界を変えようとすること自体が、自分の中に欠乏がある、それを満たすのは自分自身ではできないことだ、と間接的に認める構造になっていた。
死なないで生きてきたなら、生きられるだけの恵みがあったということ。
でもいつもどこかで困っている人がいる。
その人のことを自分ごととするように、人は自分の外部要因をコントロールしたいと思い行動してしまうのだろうか。
自分の欠乏を補おうとする戦いが終わって、勝ちも負けもせず、いや負けたのか、どん底に落ちたとなんて思う。
必死になって検索してたら、イタリアの格言を見つけた。
どん底に落ちたら掘れ。
自分の内側に気持ちが向いて自分を変えるしかなくなった時、まだどこかに逃げ道はないかと人は絶望してみせるのだろうか。
俺の場合、行為によって自分の中の欠乏感を強化してきた。
それでどん底で掘ってみた結果。
自分の中にある充足を膨らませていくしかない、と思った。
他人は変えることができない、自分を変えることだけができる。そうわかったつもりだったけど、俺のしてきたことは要するに矛盾を可視化する言語化的な表現だけだった。
具体的に困ってたことは、価値のありそうなコンテンツを作っても、それを買う判断をしてもらう、ってことだった、そこは他人がイニシアチブ、主導権を握ってるってことが、干渉仕様のないことだった。
つづいたらつづく