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短編小説(雑誌掲載作品)『紅筋の宿』

1 過ち

 梅雨明けの炎天下、寂しい田舎道を男が歩いている。薄紫のポロシャツにジーンズ、黒革のショルダーバッグを斜にかけた姿は颯爽さっそうとしているが、山に囲まれ一向に変わらぬ景色の中を、数歩行っては立ち止まり、黒いキャップをかぶった頭をきょろきょろとさせているのは、道を誤ったのである。
 男は集落のとっかかりにある神社の境内まで来ると、由来板ゆらいばんをざっと読んでから、その脇にある大石に腰を下ろした。胸ポケットから携帯電話を取り出して、午後4時を回っていることを知るが、予約した旅館に電話をしようにも、電波は圏外でかけられない。それでも男が慌てていないのは、先刻降りたバス停まで戻っても、どうにもならないとわかっているからだった。降りしな、運転手から、このバスが今日の最終便だと告げられたのだ。
 なぜわざわざそのようなことを言うのかと不思議に思っていたが、あの運転手、はなから客の間違いに気づいていたのだ。ならばひと言「ここは温泉場じゃありませんよ」と言い足してくれればいいものを。いや、そもそも自分は、駅前で乗るバスを間違えたのである。めったによそ者など訪れそうもないこんな片田舎へ向かうバスに、明らかに旅行者と見える客が乗り込んだところで、行き先を訊ねてくれてもよさそうなものだ。そこで気が利かなかったとしても、一時間半の道中に「お客さんどちらまで」と質す機会はいくらでもあったはずだ。だいたい、ふだん都会で蜘蛛の巣のような鉄道路線を迷うことなく使いこなし、旅慣れてもいる自分が、こんな過ちをおかすということは、バス停の案内表示がよほど不親切にできていたのだ。行き先がどんな隠れ郷であろうが、そこが客を迎える観光地である以上、最低限、目的地までの手引きは細やかに心配りするべきではないか。
 男は考えつくだけの、運転手とこの田舎町の不始末を胸の内でなじった。さりとて、ここに温泉宿が湧いて出てくるわけでもない。不承不承ふしょうぶしょう立ち上がり、尻のポケットからハンカチを出すと、それで首筋をひと拭いして、再び道へ出た。

 歩きだすとすぐ、青々と広がる田畑の中に、平屋が点在しているのが見えてきた。そのうちの一軒に、男は目を留めた。他の家々が土ぼこりに汚れたガラス窓をぴたりと閉じて、まるで人気ひとけを感じられないのと違い、その家の庭先には、淡い色合いの洗濯物がはためいていたからだ。
 からからに乾いた道は、男の歩みに合わせて白い砂けむりを上げる。それが首筋や額に吹き出る汗にくっつくのを、男はしきりにハンカチで拭った。本当なら今頃、温泉でこの汗を流していたはずだと思うと、自分を責める舌打ちが出る。
 なんにつけても、この男はそうだった。責めるべき相手がいるうちは、それをとことん責める。自省は最後だ。どこでも誰にでも軽々しく頭を下げる者を、うまく世渡りをしているつもりで実際はなんの益も得られず使い捨てられる雑兵ぞうひょうだと、小馬鹿にしてはばからない。ましてや反省など、負け犬の気の薬としか思っていない。
 集落はしんと静まり返り、物音ひとつしない。土曜日の午後だというのに、生活の匂いがするのは洗濯物がある家からだけで、辺り一帯まるで廃墟のようだった。

2 女の家

 かの家の玄関先に着くと、男は前庭を覗き込んだ。遠くからは小振りに見えたそれは、自分の2DKの部屋が二つ入ってまだ余りそうな広さがあった。白、赤、黄と、色とりどりの花が風にそよぎ、その上には先ほど道から見えた洗濯物が揺れている。真っ白なブラウスと水玉模様のTシャツ、花柄のエプロン、ストッキング、ハンカチや下着、どれも華やかな女物ばかりだった。縁台の沓脱くつぬぎ石には、雑巾を引っかけたアルミバケツと丸めたホースが置かれ、その横に赤いサンダルが揃えて置いてある。男物らしいものや子供の遊具などは、見当たらない。
 男は汗まみれの顔に笑みを浮かべると、ハンカチでそれを消すようにごしごしとこすり、尻のポケットに押し込んだ。
「ごめんください」
 声をかけて待つが、返事はない。ガラス張りの引き戸に手をかけると、思いのほか軽く、からりと音をたて開いた。漏れ出てきたひんやりとした空気の中に甘い香りを嗅ぎ、男は思わず鼻先をそこへ差し込む。
 土間を改装したものなのか、玄関は宿屋のように広く、赤茶色のタイルはつやつやと光って、そこに並んだ黒塗りの女下駄と水色のハイヒールを映しこんでいる。どっしりとした下駄箱の上に置かれた花瓶には、白地に赤い筋と血しぶきのような赤紫の斑点模様の花弁をつけた百合が、気だるげに首をもたげて芳香を放っていた。
 男の顔がかげった。これによく似た花を愛した女と、昔関わったことがあったのだ。名も忘れ、顔もおぼろの印象薄い女だが、小さなアパートの窓際にずらっと並べた花の鉢と、
「これは百合のディジー。雛菊ひなぎくのデイジーとは違うのよ。ディジーって、英語で眩惑げんわくって意味なの」
 と、聞きもしないのに何度も繰り返した声が、頭のどこかに残っており、こうして百合の花を見るたび、思い出すのである。
「ごめんください」
 まっすぐ伸びる廊下に向かって再び声をかけると、返事の代わりに奥の方からしゅっしゅと衣擦きぬずれの音がして、やがて廊下を小走りに女が現れた。
 艶のある黒髪をゆるく結い上げ、浴衣姿であるにもかかわらず、足には白足袋をはいている。浴衣は白地に藍で、ここにも大きな百合が咲いていた。男は、女の年の頃を、不惑ふわく目前の自分とそう変わらぬものと見積もった。
「どちらさま」
 そう言いながら上がりかまちに膝をついて首をかしげる女から、百合とは別の甘い香りが微かに匂う。化粧気はまるでないが、やや上気した白い肌は艶めいて、汗の浮いた額の際から湿っぽい後れ毛を絡ませた耳たぶまで、垂れ落ちるような色気がある。男はつい見とれるのをごまかすために、手のひらで額の汗を拭った。
「すみません、道をお尋ねしたいのです」
「迷われたんですね」
「ええ、そのようで。この辺りに、宿はないでしょうか」 
 女は男を見上げて、困ったという表情をしてから、やわらかく微笑んだ。
「ございません」
「困ったな」
「最終バスでいらしたんですね」
「ええ、うっかり乗る線を間違えたようで」
「よくあることです」
「よくある?」
 男は眉根を寄せた。女は微笑んだままうなずく。
「ええ、年に何回か、そういう人が」
「ぼくのような迷い客が、珍しくないんですね。まったくひどいバス会社だ。ではどこか、気兼ねなく厄介になれるところはないですかね」
「うちを、お使いください」
 女は、慣れたふうに脇のスリッパラックから真新しいのを一足出し、男の前に揃えた。
「いやいや、そんなわけには。こちらは女性お一人でしょう」
 三和土たたきに突っ立ったまま男が言うと、
「あら、なぜわたくしが一人住まいだと、おわかりになったのかしら」
 女が小首を傾げる。
「あっいや、洗濯物やなんかが、向こうの道からも見えたもんだから」
 男が頭を掻くのを見て、女がくすりと笑う。
「そうでしたか」
「それより、電話を貸していただけませんか」
「ええ、どうぞ。奥ですから」
 女は立ち上がって背を向け、宿の仲居が案内をするように、肩を斜めに落として廊下をさっさと行ってしまった。男は慌てて靴を脱ぎ、爪先にスリッパを引っかけた。女はちらと男を振り向いてから、さらに奥へ進む。
 廊下の掃き出し窓は開け放たれ、レースのカーテンを揺らしていた。男はそこから庭先を見た。先ほど覗いたときには隠れて見えなかった場所に、玄関に飾られていたのと同じ百合の群生があった。その脇には主のいない犬小屋と、錆びた一斗缶いっとかんが据えてある。そこに釣り竿が数本と、黒いゴム長靴が押し込まれているのを見て、男物かと窓に寄ろうとしたとき、物干しのブラウスが風に煽られてめくれ、そこから西の山に隠れかけた真っ赤な夕日が覗いて、男の目を射た。
「どうなさいました」
 目をつむって立ち止まった男に合わせるように、女も歩みを止めて振り向いた。
「いえ、百合の花が綺麗だなと思って。あの赤いの、ディジーというのでしょう」
「さあ、そんな外国の名前は知りませんが、あれはこの辺りにはよく咲く、紅筋という山百合ですよ」
「べにすじ」
 言いながら、男はあらためて花を見た。別名か別物か知らないが、あの女が愛でていたものより、こちらのほうがやや野性的に思えた。
「さ、こちらです」
 いつの間にか女が、廊下の行き詰まりに立ってこちらを向いていた。そこに、腰の高さほどの木製の電話台がある。
「ああ、どうも」
 男は早足で女に近づき、すれ違うとき無意識に息を吸い込んだ。玄関先で嗅いだのより強い、石鹸の匂いがした。

3 宵闇

 ショルダーバッグを足下に置いて受話器を取り、胸ポケットから携帯電話を出してアドレス帳を開いたものの、男はどこに電話したらいいのかわからなかった。こんなところまで車で迎えに来てくれと頼める相手もいなければ、帰りが一日延びることで心配をかける相手もいない。
 うしろを振り返ると、女はいなかった。男は東京の出版社の番号を押し、咳払いをした。呼び出した担当編集者に事情を説明し、
「そりゃ困りましたね。しかしうちとしては、余分な宿泊代と交通費は出せないっすよ」
 と、予想どおりの返答を聞いてから、電話を切った。
 玄関に戻ろうとすると、脇に置いたはずのショルダーバッグがない。辺りを見回しているところに、背後の障子が開いた。驚いて振り返る。
「どうぞ、こちらへ」
 そこに立つ女の肩越しに中を覗くと、衣桁いこうと木製のちり箱だけが置かれた六畳間の隅に、ショルダーバッグがあった。
「なんです、ここは」
 部屋に半身を入れると、床の間に、紅筋が三本生けられていた。
「お疲れになったでしょう。ちょうどお風呂が沸いていますから」
 女がやわらかな声で言う。
「困るな。電話を借りに上がっただけなのに」
「お泊まり先、見つかったんですか」
「いや、それはまだ」
「野宿をなさるにしても、お風呂はお入りになりたいでしょう。やぶ蚊は汗の匂いで寄ってきますからね」
「しかし」
「ついさっきわたしが使ったばかりで、いい湯加減ですから」
 隣に立つ女から漂う香りが、ふいに濃くなる。男はその中に、石鹸臭とは別の甘酸っぱいものを嗅ぎとった。
「確かに、汗はかいたな」
 男が言い終えぬうち、女は男の脇をすり抜けて廊下に出、
「どうぞ、さっぱりしますから」
 再び肩を斜に落とし、廊下を戻っていくのだった。

 風呂場は、廊下を途中で折れた先にあった。女は脱衣所の戸棚から、手拭いとバスタオルと洗いざらしの男物の浴衣を取り出し、床に置かれた籐籠とうかごに入れて「女のあとの湯で、すみませんけど」と言って出て行った。準備の良さに呆れながら男が目をやった洗面台に、使っている歯ブラシが二本と男用のT字剃刀があった。
 木の香がするひのき風呂に身を沈めると、満たされた湯は痺れるほど熱く、足から腰へかけての疲れが抜けていくようで、男は思わずうめいた。十分温まったあと、壁の大きな磨りガラス窓を開けると、宵闇よいやみに沈もうとする裏山の巨大な影が、黒々と迫っていた。
 日のあるうちならば絶景が拝めるだろうと思いながら、男はもうここへ泊まる気になっている。朝風呂はあの女と一緒に入ることになるかもしれないと、にやけ顔にざぶんと湯をかぶったとき、その肩をくすぐるものがあった。手で払って見てみると、男の白くふやけた指に、黒く長い一本の髪が絡みついていた。

4 折り指

 十畳ほどある部屋の中心に置かれた座卓に、男は一人で座らされている。卓上には伏せられた茶碗と湯呑みと猪口ちょこがひとつずつ、箸が一膳、酢の物の小鉢とふきと鶏肉の煮つけが並んでおり、隣の台所からは油の跳ねる音が聞こえていた。それがおとなしくなると、
「お待たせしました」
 染みひとつない唐紙からかみがさっと開き、女が現れた。畳についた膝の横には、大皿と土瓶を載せた盆がある。
 女の唇には、紅が引かれていた。男は膨らんだ座布団の上で、胡座あぐらをかき直す。
「構わないでもらえませんか。握り飯の二つもあれば、十分なんですから」
 女は唇をすぼめ、男に土瓶を差し出した。
「これ、岩魚いわな骨酒こつざけです。この時期は脂がのり始めて、こくがあって、疲れが取れますよ」
 男がそれを猪口で受ける。うっすら黄味がかった液体が満ち、香ばしい薫りが立ち上ったところを、ちゅっとすする。人肌のぬる燗が、風呂でゆるんだ体にみるみる染みこんで、「うん、旨い」と、思わず口をついて出る。
 女は嬉しそうな顔をして、天ぷらの載った大皿と天つゆの小鉢を卓上に置いた。
「みんなこの辺りで穫れたものばかりで、大したおもてなしではありませんから、どうぞ、遠慮なさらずに召し上ってください」
 男は猪口の残りを一気にあおり、舞茸の天ぷらに箸をつけた。さくさくと音をさせて衣を噛みしめたあと、きゅっと頬を引き締め、滲み出た旨味うまみ汁を吸う。それを飲み下すと、空腹に拍車がかかった。

 男が食べている間、女は座卓の右手に控え、酌をする以外は横で団扇を扇いでいた。最初は恐縮していた男も、そんな女の態度に、いつしか猪口を出す催促の手つきが横柄おうへいになっていった。しかし女は少しもいやな顔をせず、むしろそうして男が尊大になるほどに、卓上の食べこぼしを拾ったり天つゆを足したりと、どこかいそいそとしている。
 三合目の酒が運ばれてくる頃には、男の腹は満ち、酔いもほどよく体を巡って、目の縁には赤味が差した。
「普通の温泉旅館だって、これほどのサービスは受けられないな」
 裾から出た毛脛けずねを掻きながら、男が言う。
「せっかくのご旅行、残念でしたね」
 女も打ち解けた様子で、足を崩す。
「旅行ではなく、仕事なんですよ」
「こんな田舎にですか」
「トラベルライターっていいましてね、旅行雑誌なんかに記事を書くんです。昔はヨーロッパ専門であちこち行ったんですが、今は不況でね、こんな辺鄙へんぴな……いやまあ、いろいろ大変です」
「へえ、そういうお仕事があるんですか」
「今回は、秘境の温泉宿という特集の取材で来たんですが、乗るバスを間違えましてね」
「それは大変でしたね」
 女が骨酒の土瓶に手をかけるのを制し、男がそれを取った。
「奥さんも、おひとつ」
 空にした猪口を、もう片方の手で差し出す。
「あら、いいんですか」
「お宅の酒じゃないですか」
「それはそうですけど」
 男は膝半分、女ににじり寄った。
「まずいかな、ご亭主が帰ってきたとき、女房が見知らぬ旅の男と、酒盛りなんかしていたら」
「亭主?」
 猪口を両手で受けた格好で、女が顔を上げる。
「いらっしゃるんでしょう。女の一人住まいだなんて、嘘を言って」
 女は答えず、ぐいっと喉を伸ばして酒を飲み干した。男はすぐに注ぎ足す。
「そんなもの、もういませんよ」
 手の甲で口を拭いながら女は男を睨み上げ、座卓に乳房を押しつけるようにして体を男の方へ傾けてから、再び一気に酒を呷り、喉をこくんと鳴らした。
「亡くなったんですか」
「いいえ。生きてますけど、どこで何をしているやら。……でもそうね、突然帰ってこないとも限らない。乱暴な人だから、こんなところを見られたら、お客さん、殺されてしまうかもしれませんよ」
 言い終えたときにはもう、男の首筋に骨酒の甘臭い匂いの息がかかるほど、女は男に体を寄せていた。
 男が避けるように身を反らすと、
「ああ、あっつい」
 そう言って女も男から離れ、猪口を男の前に置いて横を向く。
「そろそろ、夏ですからね。ところで、来る途中にあったお宮の由来板に『爪塚つめづか』ってのがこの辺りにあると書いてありましたが、遺跡のようなものなんでしょう。ただ帰るのもつまらないし、明日寄ってみようと思ってね。場所を教えてくれませんか」
 男は手酌をしながら言った。しかし女は答えず、
「ああ、あっつい」
 ともう一度言うと、片手を横座りの足へ伸ばし、両の足袋のこはぜを手際よく外して、まずは左足をするり、続けて右足をするりと、足袋から抜いた。
 そのとき、「あっ」と声を上げた男の手から、猪口が落ちた。
 女の右足に、指がないのだ。
 正確には、たった一本丸まった小指だけが、できもののようにころんとくっついているだけで、他の指がない。あるべきところには丸い赤紫の引きれが、横一列に並んでいる。それがもぞもぞと動くさまは、芋虫が這っているようにも、酸欠の鯉が口を並べてあえいでいるようにも見えた。
「なにを驚いているんです」
 女は、白い首を捻って男を見た。
「なにをって、その足」
「ああこれ、折り指ですよ」
 投げつけるように言う。
「おりゆび?」
「そういうお仕事をしていて、ご存知ないんですか。この辺りに昔からある、風習ですよ」

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わたしは日本のGIベビーの肉親探しを助ける活動をしています[https://e-okb.com/gifather.html]。サポートは、その活動資金となります。活動記録は随時noteに掲載していきますので、ときどき覗いてみてください。(岡部えつ)