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ピアノのこと

わたしがピアノを習い始めたのは、4歳のときである。
望んで習ったのではない。神戸から父の実家がある前橋に引っ越してきた丁度その頃、父の妹である叔母が、ピアノ教室を開いたのだ。
それでも父には、わたしにベートーベンの『エリーゼのために』を弾かせたい、という夢があったらしい。4年生か5年生でそれを暗譜したとき、感慨深げにそう言われた覚えがある。

一度暗譜した曲は、なかなか体から抜けていくものではない。わたしは『エリーゼのために』を、ずいぶん大人になるまで空で弾くことができた。
しかし何年前だったか、ピアノがあったので弾こうとしたら、のっけの一小節も満足に弾けなかった。頭の記憶も体の記憶も、永遠ではない。

ところが、わたしには今でも、暗譜で弾ける曲が一つだけある。幼稚園生のときに暗譜し、家族や親戚から「天才誕生!」とおだてられて、得意になって弾いていた『かっこうワルツ』だ。
何故、これだけが記憶から抜けていかぬのだろう。三つ子の魂百までと言うが、その頃染み込ませたものは永遠なのだろうか。だとしたら、おさな子たちにはこの歳までは、幸せな時間だけ詰め込んでやりたい。

ところでわたしは、「天才」ではなかった。
叔母が結婚のため前橋を離れたあと、別の先生につき、小学校卒業まで続けたピアノの教科書は、ソナチネアルバムまでいっていたと思う。中学三年間はピアノから離れ、高校に入って再び始めて、ソナタアルバムまで習った。
同時期に、ロックバンドを組んでキーボードを担当していた。中学からギターを始めた子、高校からドラムを始めた子の中で、ピアノ歴10年に近かったわたしは、ダントツで音楽の素養があるはずだった。
ところが、コードがわからない。譜面がなければ弾けないので、アドリブもできない。わたしができないことを、昨日今日始めたような他のメンバーらが軽々と演るのが悔しくて、コードを勉強したり、ギターやドラムをやってみたりもしたが、結局ものにならなかった。そしてあきらめた。「プロデビューしたい!」などと無邪気に言っていたのが、みるみるしぼんでいった。若いとは、無知とは、本当に恥ずかしい。
好きであることと、才能があることは別。そう思い知ったのは、このときである。

好きは、自分が楽しむだけで、人を楽しませることはできない。
才能は、人を楽しませ、感動させ、次の何かを与える。

最近、世界各地の駅や空港などのパブリックな場所に、勝手に弾いてよいピアノが設置されていることがあるらしい。実際にそれを見たことはないが、そうしたピアノに定点カメラを置いたドキュメンタリー番組を、いくつか見たことがある。
通りを歩く人が、ふとピアノに目を留める。行き過ぎて、引き返す。荷物を脇に置く。鍵盤にそっと触れる。椅子に座る。そして、おもむろに弾き始める。
ひとしきり弾いたのち、インタビューを受ける。「どうしてピアノを?」「何か思い出が?」「いつから?」「何故?」etc……。
いろいろな人たちが、いろいろな理由でピアノを弾いてることを、わたしは知る。
悲しい思い出、希望に溢れた物語、ノスタルジックな思い、そんなのを聞いていると、また弾いてみたくなる。
わたしがもし同じ質問を向けられたら、叔母のことを話すだろう。そして、亡父のことも。

父は、まだわたしがバイエルを習っているときに、カワイのアップライトピアノを買ってくれた。その月賦の額を勘定して、母はめまいがしたそうだ。
そのピアノは、わたしが実家を出たあとも、ずっと家にあった。帰郷したときたまに弾いたのもはじめのうちだけで、やがて誰からも弾かれぬまま、母が東京に引っ越してくる際、処分されてしまった。
結婚して家を買った友人が、実家からピアノを運んで新居のリビングに据えたのを見たとき、捨ててしまったピアノが無性に懐かしくなった。わたしに甲斐性があれば、どこに引っ越そうと連れて行ってやれたのに。

ずいぶん昔の話だが、パートナーのいる人を好きになったことがある。彼のパートナーは、ピアニストだった。インターネットで検索すると、彼女の父親も音楽家で、親子コンサートの華やかな写真が出てきた。自宅のレッスンルームに置かれたグランドピアノや、海外での活躍も見てしまった。
ピアニストという職業とその活躍、応援してくれる立派な父親、魅力的なパートナー。わたしに足りなくて、欲しくてたまらなかったものを、彼女はすべて手に入れていた。
その瞬間わたしは、自分が燃え上がって消し炭になってしまうのではないかと思った。それほど激しく嫉妬した。あとにも先にも、あんなに誰かに嫉妬したことはないし、これからももうないだろうと思う。あっては困る。身が持たない。
それから、まったくピアノが聴けなくなった。お店や通りでピアノのBGMが流れてくるだけで、駆け足で逃げた。

恋が終わり、頭からも体からも記憶が抜けきった頃、ものすごいピアノに出会った。フリージャズのピアノだ。
こんなにはちゃめちゃに、力強く、思うがままに、自由に、しかしあくまでもピアノに縛りつけられて、弾けるものなのかと圧倒された。まったく知らない、ピアノの一面だった。
そうして再び、わたしはピアノの音色を素直に貪れるようになった。

そのピアニストが、ビッグバンドで海外ツアーに出る話を聞いていた時、他のメンバーたちは皆自分の楽器を持っていくのに、彼だけ身軽であることに気がついて「わっ!」と声が出た。
ピアニストだけは、ライブハウスやコンサートホールなど、”そこにあるピアノ”を弾くのだ。わたしは彼に訊ねた。
「いろんなピアノを弾いてきて、それぞれの特徴とか、あるでしょう。たとえばそのピアノの経歴とか、どんな人に弾かれてきたのかとか。そういうの、わかる?」
「わかる」と、すんなり答えが返ってきた。
このエピソードを元に、ずいぶん長いこと小説を書いている。何年も何年も、書いては消し書いては消し、全然進まないが、それでも書いている。版元からは二度も却下されたが、それでも書くのをやめていない。
ピアノはあんなに簡単にあきらめたのに、これはそうならない。だからわたしは小説家になったのだろう。

白と黒の鍵盤は、わたしの挫折の象徴である一方で、わたしに「何かを創り出す喜び」と「没頭する恍惚」を教えてくれた、感謝すべき重要な道具でもある。
そのどちらの快感も、今は小説を書くことで享受している。やめるわけにはいかない。

ピアノの初日のレッスンのことを、よく覚えている。
叔母が「”ド”はどこかな?」と言い、4歳のわたしは「これ!」「これ!」「これ!」とキーをめくらめっぽう叩いた。しばらく好きにさせたあと、叔母が静かにひとつのキーを押し、「これが、”ド”です」と言った。
わたしは「ド」を弾いた。さっきまでただの音だったのに、それに「ド」という名前がついたら、次にはメロディーになった。「ド」に「ミ」と「ソ」を重ねると、美しいハーモニーが生まれることも知った。半音変えただけで、悲しいハーモニーが生まれることも。

今は毎日パソコンのキーを叩いて、わたしは文章を紡ぎ出している。
言葉があれば、物語になる。ハーモニーを生むように文章を重ね、半音の微妙な変化を操るようにして、言葉を選び、喜びや悲しみを表現する。
よく、キータッチが強過ぎてうるさいと言われる。これは、子供の頃にピアノを習ったことのある者の、定めなのだそうだ。


わたしは日本のGIベビーの肉親探しを助ける活動をしています[https://e-okb.com/gifather.html]。サポートは、その活動資金となります。活動記録は随時noteに掲載していきますので、ときどき覗いてみてください。(岡部えつ)