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伊勢海老と祖父

下田旅行で、久々に伊勢海老を食べた。伊勢海老で思い出すのは、幼少期のこと。

小学生の頃、一時期、祖父母の家に住んでいた。祖父は東大工学部の教授で(当時は東大を定年退職し、法政大学の教授をしていた)、全国各地で教え子たちが活躍してるらしかった。そのため毎年、お中元とお歳暮はたくさんのものが届いていた。

お酒大好きな祖父のもとには、多くのお酒が届くのだが、中にはジュースやカルピス、ゼリー、プリンなど、子どもが喜びそうなものを送ってくれる方もいた。全く図々しい子どもだが、自分が食べられるものが毎回送られてくるのを楽しみにしていた。

特に喜んだのは、お歳暮に送られてくるカニと伊勢海老。毎年送られてくると、親戚が集まり、伯父が豪快に伊勢海老をさばいてくれて、親戚みんなで食卓を囲った。

今、伊勢海老食べたいなと思っても、高級すぎて食べる機会はほぼない。そんな高級食材を毎年、しかも生のものを食べられていた私は、改めて祖父のおかげで良い思いをさせてもらっていたな、と思う。

お中元、お歳暮もさることながら、年賀状の枚数もものすごく多かった。一緒に住んでいた頃は、年賀状の仕分けを楽しんでいて、確か400枚くらい届いていたと思う。毎年、新年には若い頃の教え子たち10人あまり(教え子といってもみんな祖父と大して年齢が変わらないのでおじさんたち)が祖父の家に集まり、新年会も開いていた。子どもながらに慕われているのかな〜なんて思っていた。

書斎の奥には、私が物心ついた頃だから1990年代前半には、すでにコンピューターが2〜3台置いてあった。その机にたどり着くには、幅30センチあるかないかの、森の中の小道のような通り道を抜けなければならない。しかも周辺のものに触れずに。小道の脇には、全てが膝丈くらいまで積み上げた本、本、本。そんな本の森で、祖父は日々仕事と研究に打ち込んでいた。

60歳で東大を定年退職し、70歳で法政大学を定年退職したあとも、何かの雑誌に載せる原稿書きやら、いくつかの会社の役員やら、どこかでの講義やら、ずーっと仕事をしていたし、研究を続けていた。

「45年考え続けた問題がようやく解けたよ」と聞いた時「あぁ、こういう人を研究者と言うんだなぁ」と、タイムスパンの長さに驚愕しつつ、研究者の本質を見た気がした。

何歳になっても社会から求められ続け、生涯研究を楽しみながら続けている祖父は、私の自慢であり、理想の姿だった。

そんな祖父は、90歳を迎えた時にがんが見つかり、去年は2回ほど、お迎えが来るのではと覚悟した。91歳の誕生日を迎えた頃が2回目の覚悟をした時で、さすがに仕事へも支障が出てくるだろうということで、全ての役職を辞退し、実質的に仕事は引退した。そして3回目の覚悟をしている今、いよいよ「年は越せないと思ってください」と医師に言われた。

ついこないだまで、シャッキリしていて仕事に研究にこなしていたのに、仕事を辞めた途端、急におじいさんになってしまった。でも、一番この変化にショックを受けていのは本人。まだまだ研究したいことがたくさんある、と生きることに貪欲だったから。

どうか、祖母がお迎えに来るまで、祖父の尊厳が守られますように。


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