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アラ古希ジイさんの人生、みんな夢の中 フィリピン編⑮愛があれば年齢(トシ)の差なんて

さて、今回はフィリピンの愛すべき仲間、メイド・ドライバー・ガードたちのお話。 
 
フィリピンは人件費がものすごく安いことと、物騒なこと等から、メイドやドライバー、ガードマンを雇うことが多い。
 
我々はマニラでも、マニラから北に250kmの工事現場サイトでも、大きな家を借り上げたり、建てた家を寮にして住んでいた(マニラの寮の私の部屋は、自分んちの1階の総面積より広かった)。
マニラに本拠がある時は、寮にメイド3人+小間使いの若い男1人、時々行く現場サイト寮には、その時メイド1人だった。現場に主体が移ると、マニラのメイド2人+小間使い1人がそのままサイト寮に移動し、マニラに残ったメイド1人が、マンションを借り切った3LDKに居残って、週末、命の洗濯にマニラに来る我々の面倒を見てくれた。食事は勿論、部屋の掃除や洗濯をしてくれた。最初は下着まで洗濯させて良いのか?と思ったが、すぐ慣れてしまった。メイド4人のうち、1人は30代で故郷に子供と亭主を残して来ていた。もう1人はサイト近くに家族を持って居た。あとの2人は独身の姉妹で、サイトの近隣出身のドライバーの娘だった。我々は常に「Sir,」と呼ばれ、帯同している所長の奥さん等に対しては、「Yes, ma'am,」と対応していた。(台湾でも仕事をしたことがあるが、街には「女中 連絡先〇〇」という貼り紙がしてあり、そう言えば昔は日本でも女中と言って居たと思い出したが、女中という強い響きの言葉に、何だかドキッとしたことがある。)
 
ドライバーは全部で6~7人居て、我々は、日本人7~10人(+ローカルスタッフ7~8人)に対して車は3~4台、昼間は交代で常時待機していた。したがって、社用では運転手付きの車にしか乗らなかった(物騒についてはそれほどでもないが、貧しさゆえの泥棒とか強盗が多い)。こういう生活、贅沢だと思うかもしれませんが、ごく普通です。
 
ガード(守衛)は、マニラでは特別居留地全体にゲートがあり、ガードが常駐していて、会社で雇用する必要はなかったので、サイト寮だけであるが、24時間交代勤務なので6人くらい、20~40代にかけて居たと思う。自動小銃を携行していたが、やさしく至って気の良い男たちであった。
 
メイドやドライバー、ガードマンの忠誠心も、クリスチャンが90%くらいを占めるせいもあるのか、相当である。
そんなこんなのフィリピンである。企業の関係では、トヨタの元社長(奥田碩)がフィリピン駐在経験者だったとか、若王子元三井物産マニラ支店長の誘拐事件とか、深田祐介の直木賞「炎熱商人」とか、話題になったことがあるが、日本からフィリピン赴任の決まった会社員の奥さんは、「エエーッ! なんでシンガポールでも香港でもなく、フィリピンなのーッ!?」と言ってまず泣くそうである。それが仕方なく亭主とフィリピンに暮らしてみると、案外良くて、また転勤で日本に戻る時、奥さんは、「エエーッ!? もう、メイドもドライバーもいない日本に帰らなきゃいけないのーッ!?」と言ってまた泣くそうである。
 
実際に見たことはないけど、その気持ち、私にはよーくわかる。
 
 
フィリピンでは、雨期の雷雨時以外にも、非常に停電が多かった。発電所もどんどん出来て、足りない筈はないと思うが、トラブルとか作業停電が多くて本当に参った。マニラではそれでも長時間続いたのは経験ないが、発電所建設の工事現場サイト(マニラから北へ250kmの田舎)ではしょっちゅうあった。停電はBlack-outだが、この国では計画的に行われること(作業停電)が多いことから、Brown-outと呼ばれる。通常土曜日が圧倒的に多いが、トラブルの時は勿論突然やってくる。

トラブルで一番多かったのは、なんと樹木の生育による電気事故であった。刈っても刈っても生えてきてしまう、という熱帯の旺盛な生命力によるものであった。アメリカ西部でも大停電が発生した時の原因が、やはりコストダウンによるメンテナンス不良での、樹木の伸び過ぎによるものであったが、熱帯は、アメリカと比べてもケタはずれなのである。
 
停電で一番長かったのは、台風の影響でまる1週間続いた時であった。送電線が倒壊したためだ。しかし、その時はサイトの寮でもディーゼル発電機を買っていて、なんとか水廻りと共用の冷蔵庫・クーラが使え、日中は発電所が既に試運転中で事務所に冷房があり、きついことはきつかったがそれほどでもなかった(夜はうるさいので発電機は停めていたが)。
 
一番ひどかったのはまだディーゼル発電機がない頃、木曜の午後から土曜日の午後までまる2日間続いた時である。この時はトイレが使えず、エンジン発電機がある事務所で用(大)を足し、ヒゲも事務所のトイレで剃った。夜はシャワーが使えず、臭いトイレで小のみして、ろうそくの明かりでちょっと本を読みすぐに横になったが、暑くて中々眠れなかった。復旧した時は、なんと電気と水道は有り難いものか、と涙が出そうになったものである。因みにこの時の停電の原因は、反政府組織と警察との銃撃戦で、送電木柱(鉄塔ではなく、木柱が使われていた)が折れた、というものであった。(当時は電気と水道をどちらも必須なものと考えていたが、今思い返すと、水道が使えなかったのが、電気より苦痛だった、と思う。)こんな話、能登半島地震の被災者に比べれば、罰が当たりそうだが、実感としてはやはりある。
 
わが寮のメイドたちはこんな状態の中で、プロパンガスとペットボトルのミネラルウォーターを頼りに、何とかごちそうを作ってくれた(ほんとに今思っても有難い。まるで菩薩である。これを考えたら、時々彼女たちがする失敗など<洗濯しすぎてパンツがぼろぼろになる、というようなことは全く大したことはない。足を向けて寝られないな、と思ったほどだけれども、彼女たちにすれば、停電など日常茶飯事で大したことはない、というのが実情だったであろう。)
 
まあ、元々周辺の人たちは、電気は細々としたランプとテレビくらいしか使っていなかった。冷蔵庫もないようだったし、洗濯は主婦が手洗いしていた(フィリピン人は清潔好きで、洗濯も実にマメで、寮には、2槽式の洗濯機がありました)。水道は井戸を使っていたのかなあ?ともかく、フィリピン全体でも、日本の大きな県くらいの電気しか使っていなかったし、生活水準も推して知るべしなのである。(今はどのくらい変わったか、見てみてみたいものだ。)
 
そんな停電の中で、その辺の大概の家では、外のテーブルに集まってローソクで静かに、しかし楽しそうに食事などしている。そして、何よりのごちそうは、満天の星である(彼らには当たり前すぎてそうとは思わないだろうけれど)。マニラのようなスモッグもなく、普段もそれほど光の少ない地方で、曇らない限りは大体星がよく見えるが、やはり停電だと唸ってしまうほどである。まさに天然のプラネタリウムを仰ぎながら、昔星座を思いついたり、天体の法則を発見した偉大な先達たちに思いを馳せるのである。
 
さて、今回の本題、男と女のお話。
 
我々単身赴任者のメイドは、4名。
① Betty(30代後半?)夫と子供を故郷に残し、Manila⇒工事現場サイト寮住込み
② Maylene(30代?)工事現場サイト寮近くから通い
③ Gee(20代) 工事現場サイトの町出身 ドライバーの娘 Manila⇒サイト寮
以上3名がサイト寮
④ Arcerene(20代) Geeの妹、Manilaの借り上げ寮(アパート)住込み

小間使い Ronnie 男20代だが、ボーイソプラノで童顔で少年ぽい 工事現場サイトの町出身 Manila⇒サイト寮
 
現場サイトのいつ頃だったか、多分帰任する半年前くらいだったか、小間使いのRonnieが、出勤拒否になって、何日も寮に出てこないことがあった。
小間使いがどんな仕事をしていたか、外回りの掃除や買い物が主ではなかったかと思うが、出て来なくとも何とか成り立ってしまうので、余計引きこもりになるのかも分からないが、誰もあまり気にしないので、自分がしゃしゃり出て、ドライバーに頼んで、Ronnieの家に連れて行ってもらった。彼の実家は、高床式の木造り、藁葺のような狭い、粗末な家だったが、家族と共に、不貞腐れていたようだった。「明日からまた出て来いよ」と励まし、その後何とか復帰した。
 
我々の仕事は、発電所完成で一区切りし、建設部隊は帰任、発電所メンテナンス指導の機械・電気のエンジニア2名が、その後1年間駐在することになっていた。1998年12月初めで、まず3名が帰任、自分を含めて3名が3週間~1.5か月延長要請を受けて、12月末~99年1月末帰任した。
 
驚愕のニュースは、帰任後半年くらいで届いた。何と、「BettyとRonnieの結婚」であった。そんな、バカな!!?大体、Bettyには亭主も子どもも居たのでは?詳しい話は自分らには分からないが、保守指導のエンジニア2名と事務所長代理が結婚式に、バロンタガログという正装で出席したニュースだけ聞いた。いったい彼らの間に何があったのか?多分(私の妄想だが)、Ronnieの、Bettyのベッドへの夜這いを、Bettyが許したのではないか?Ronnieの出勤拒否も、Bettyに関係していたのであろう、と思う。
真実は分からないが、今はただただ、彼らの現在の幸福を願うだけである。
 
男と女は何が起こっても不思議ではない、


今回の一首
吾背子と二人見ませば 幾ばくか このふる雪のうれしからまし
                          光明皇后

フィリピンの正装
(男:バロンタガログBaro ng Tagalog、女:マリアクララガウンMaria clara gown)
藁葺屋根の家(Ronnieの実家は右の写真のようであった)


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