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日本で最初にフランス菓子を学んだのは、元武士!

日本でフランス菓子を最初に学んだ人はどんな人だったと思いますか?

それは、おそらく村上開進堂の初代、村上光保氏では、と言われています。氏は京都の宮廷に仕える武士だったのですが、時代が明治になると明治天皇とともに東京に遷り、宮中の大膳職となります。ときはまさに、西洋文化を受け入れんとす時。これからは、鹿鳴館でも西洋菓子もふるまわねば、と、お上からの命により、村上氏は、横浜の外国人居留地のフランス人パティシエの元に、修業に行かされたのでした。

すでに中年、しかもフランス語なんてわからない!そんな状況でのお菓子修業は、想像を絶する苦労があったかと思われます。

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その氏にお菓子を教えたのが、マルセイユからやってきた、サミュエル ペイルという職人でした。彼は、ペイル家の4兄弟の3男。なんと他の兄弟も、入れ替わり立ち代わり、来日してパティシエとして働いていたとのこと。
(写真左が、サミュエル ペイル。右が村上光保氏)

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ペイルは、マルセイユで修業したパティシエ。今でも、南仏は暑いので牛が育たずバターやクリームなどの乳製品を使ったお菓子が少ないのに、当時マルセイユではどのようなお菓子を作っていたのか、個人的にはとっても興味あります。それでもペイル兄弟は、日本にシュークリームをはじめ、それなりのお菓子を伝えているということがわかります。(のちに村上氏が作製しているのですから)

3年間の修業を経た村上氏は、1874年、宮内庁御用達の洋菓子店を開きます。お客様の大半は、政府高官、皇族、貴族。大切なパーティーや大切な外国からのお客様のために数々の素晴らしい作品を作り上げていったのです。特に三代目、二郎氏は、フランス菓子の現本を見ながら研究したとのことで、その仕上がりは、今のフランス菓子と比べても、遜色ない出来栄えです。

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ここで、興味深いのは、村上開進堂は、マロン・グラッセが得意で、1910年の日英博覧会で、金牌を受賞しているということ。マロン・グラッセと言えば、マルセイユなんです。ここだけの話ですが、パリで売っているマロン・グラッセの大半は、マルセイユのマロン加工工場で作られたものなのです(あの有名店のも、あそこのパン屋のものも。も等級違いますが。もちろん手作りしているお店もありますが、少ない)ということで、マルセイユで修業したペイル兄弟が村上氏にマロン・グラッセ作りを伝えたのは確かでしょう。

村上開進堂は、京都にもお店がありますが、そちらは、初代光保氏に学んだ甥が、1907年にオープンしたお店です。

現在、村上開進堂本店は、5代目山本道子さんとそのお嬢さん、馨里さんによってさ
らなる発展を続けています。

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