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ウエディングプランナーへの道②

前回のお話から…
7年間のOL生活を経て、私は先輩の結婚式で見た“ウエディングプランナー”という職業の人を見て憧れ、転職をすることになりました。
そして、就職活動をして無事にプロデュース会社に就職したのでした。

お客様のためなら公園や島、美術館、県外にまで行って一から会場を作る、私が入ったプロデュース会社はそんなところだった。
毎週違う場所に行っては荷物を運び込みセッティング、緊張の時間を過ごしてはすぐに撤収。
平日は打ち合わせやミーティング、週末に向けての準備と忙しく、休みもあまりなかったし、毎日夜遅くまで仕事をした。
だけど、その頃は若かったし(笑)無我夢中で働き詰めの毎日も楽しかった。

今で言うとアウトなんだろうけど、毎日仕事が終わるのは日が変わるころ。
朝も早いし、休みはあるものの仕事に追われすぎて休みも休みでなかった。
でも楽しかったのは、大変ながらも毎回違う会場でバリエーション豊かな結婚式だったことと、お客様の要望を聞きながら新しい会場を見つけてきたり、イチから自分でつくり上げることができたこと。
ブライダルフェアも様々な会場で行い、普通の式場がしないことを企画していました。
参考にするのは、vogueやSPUR・婦人画報で企画会議では雑誌を広げてみんなでブレストしながら何時間も妄想を広げてたっけ。
本当に懐かしい…。

私が入社したころは、まだウエディングプランナーという職業がそれほど定着していなかった。
結婚式が決まったら、あの本を買って、式場のブライダルフェアを周って、たくさんの人を呼んでする所謂 “披露宴” という形がほとんどだった。
だから、レストランウエディングというだけでご両親からの反対があったり、ガーデンで結婚式?何それ?みたいな反応も少なくはなかった。

それから2年くらいしてかな?いきなりブームがやってきた!

ジェニファー・ロペスのウエディングプランナーが主役の映画、日本でもウエディングプランナーが主役のドラマが流行り、公園で結婚式をするなんて私たちにとってはそんなに珍しくもなかったことが、ようやく一般の方にも少しずつ認知されるようになり、プロデュース会社全盛期がやってきた。

新卒の少なかった当時う6~7名社員の会社に就職希望者がなんと150名ほど…!
私がこの仕事についた頃には考えられなかった。
その後はもちろん仕事の忙しさも加速して、新規来店や決定率もめちゃくちゃあがり、年間60組ほど自分が手がけるようになり、いっぱいいっぱい。
嬉しい悲鳴とはまさにこのことでした。

ただ、そのうち心と体のバランスが取れなくなって5年働いた会社をやめることになりました。
今思い出しても過酷な日々だったけど、私の根本を作ってくれたのはここ無くしてはあり得ない。
本当にたくさんの経験を積ませてもらい、営業の仕方、お客様との接し方、コミュニケーションの取り方、何から何までおしえてもらった。
死ぬほど働いたけど今となってはいい思い出かな。
いくつもの会場からフェアをしてほしいと依頼され、働いていたみんなと3日徹夜したことは当時の仲間たちとも未だに笑い話として話がのぼるほど。

濃すぎる5年間だったけど、今私がどこにもできない結婚式を作れているのはあの時があったからこそです。
そんなことに感謝しつつ、お話はまた次回に。

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