理性と本能

『なにか言葉にしなくてはいけない』
今日ぼくの頭でそんな思考がぐるぐる回る日なのはたまたまのことだ。


いや、より厳密にはたまたまではない。

基本的にはなんらかのトリガーがあって、ぼくはそれを踏んでこちらの世界にいつも入り込んでしまう。


ぼくはたぶん理性的な人間として生きている。
なぜならこれまでそれを求められてきたからだ。

食欲・睡眠欲・性欲、これらをおおっぴらに出すことを求めてはいけない風潮がある気もする。

その一方で、ある種の修行のようにすべての欲から解脱することが必ずしも正しいわけではないのもまた確かである。




ぼくはあるときから、これらの欲を脅かされてきた。


人一倍少食かつ偏食家のぼくを昼休みまで残して喰わせた教師と、およそ食べ物として認識しないまま飲み込む私。

両親の仕事の都合で毎週2時間車移動があったが、その道中で怒号が飛び交う中、車酔いしやすいぼくを無視して荒い運転をする父と、ずっと眠りを阻害される私。

ぼくが寝ている横で狂ったようにセックスする両親と、漠然とした恐怖心にかられじっと息を潜める私。



25歳になったとき、ようやくこれらにどこかおかしいところがあるのでは?とふと思った。

これもたまたまである。
きっかけはひょんなことだった気がする。
覚えていない。



思い返せば『三代欲求』は私の中では、理性で取り締まるべきものだと思い込んできたし、本能的なものに操られないように説得してきたんだと思う。


そしてぼくはあるとき解放された。


思う存分食べていいし、寝ていいし、セックスしていい。



そう思ったとき、逆にできなくなった。



不思議だなと思う。

理性を捨てようとすればするほど、その下に隠れているはずの本能をなかなか見つけられない自分に気付く。



だから、とりあえずゆっくり探していこうと思った。そういう話だ。

幼少期に置いてきてしまったものを、これから集めていこうと思う。



出遅れたが、スタートは遅くないと信じたいぼくがいる。


そしてそのスタートを共に切ってくれそうな人が見つかったことを、いつかのぼくのためにここに記しておくことにする。

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