恋に恋したわたしだけれど

「梢って、好きな人いないんだよね」
 幼馴染の珠希にそんな言葉を向けられたのは、修学旅行初日の夜だった。
 修学旅行の夜、消灯時間を過ぎて布団にもぐってからやること。定番の極致、恋バナである。何度となく少女漫画で読んでいてなお、本当にそんなことするんだろうかと疑い半分だったわたしは、実際に始まったその談議にちょっと驚きつつ、自分から進んで入りはしないけどさして否定的に布団をかぶるでもなく聞いていた。
 曰く、サッカー部の誰それはやっぱり人気である。
 曰く、実は付き合ってる人がいるという話である。
 曰く、それは先日の教育実習に来た大学生である。
 きゃあきゃあ。
 知らなかった事実には相槌を、驚愕的な推測には小さくとも歓声を。楽しそうな雰囲気を感じながら、それにほんの少しの上乗せを。
 高校生活も二年目になり、様々な人間関係を経験したわたしは「人を好きになることの価値」を何となく理解できるようにはなった。
 誰それがモテる話、誰それが付き合っている話、誰それが誰それを好きな話。それぞれ、誰かにとって大事な話で、その事実を誰かと共有するのは楽しいことなのだと。
 自分はともかく、周りの大勢がそう考えているということは理解できた。
 でもそれは、わたしにとっては憧れみたいなものなのだ。
 恋愛漫画をいくら読んでも、ラブソングをどれだけ聴いても、そういうものだって理解できても、わたしの心は少しも暖かくなってくれない。
 だから、
「え。あ、うん」
 珠希の言葉に対して、こんな生返事しかできなかった。
 そんな曖昧を、恋に恋する女子高生達は見逃さず、すぐさま反応してくる。
「え、梢ちゃん誰もいないの?」
「うん、まぁ、」
「誤魔化すとこじゃないかんね?」
「そう、なんだよね。なんか、いなくてさ」
「年上じゃないとだめとか?」
「いやー、どうなんだろ」
 交友関係の狭さは自分で理解している。学年が一つ離れるとそれだけで大きな隔たりを感じてしまうし、近くにいる大人といって筆頭に上がる教師陣にも、まぁ失礼ながら尊敬の念すら抱いたことがない。
「なんか、そういう、好きになるきっかけみたいなものって、あった?」
 逆に聞いてみた。
 少なくとも、わたしの持っていない「好き」を持っている彼女たちは口々に答えてくれる。
 曰く、授業でサッカーしてるのが格好良かった。
 曰く、一昨年告白されて付き合っているうちに。
 曰く、保育園のときには結婚の約束をしていた。
 きゃあきゃあ。
 一部の例外に「そういうの本当にあるんだ」という本心を顔と口に出しながら、そんなもんなんだな、とも思っていた。
 なんか、日常の延長というか。きっかけなんて何でもよくて、その辺にいる人を適当に好きになるんだなって。
 そりゃあそうだ。漫画とかじゃないんだからヒーローとヒロインさながら、劇的な出会いをしてる女子高生なんてそんなにいるわけない。
 わたしのクラスに転校生が来たことはないし、登校中に誰かにぶつかったこともない。幼い頃に決められた許嫁も、親が突然連れてきた義理の兄弟もいない。
 運命の相手、なんて言葉に踊らされているだけで、そんなものなんて本当はいなくて、なんとなくで人を好きになるのがわりと普通なんだって、彼女たちがそう思わせてくれた。
「なんか、あれじゃない。人をよく観察するとか」
「え、そんなことしてんの?」
「そうじゃないけど、そうしたら見つかるかもしんないじゃん」
 好きのきっかけの話は、いつの間にか、わたしの好きな人を見つける話になっていた。どうやって見つけたらいいのか、自分だけではほとほと見当もつかないので、まぁ有難い話ではある。
 そうなのだ。
 誰かを好きになることは素晴らしいことで。
 それを持っていないわたしは、みんなより少しだけ不幸な所に立っていて。
 だからみんな、わたしが好きを持てるようにと熱くなってくれる。
 それを嬉しく思えないわたしはやっぱりここには相応しくないんだろうなと思いながら、それを伝えるのは流石にKYだとも理解し、わたしの笑顔はほんの少しだけ硬くなった。
 いつの間にか部屋の入り口に立っていた見回りの先生に怒られるまで、わたしの周りで賑やかに花が咲いていた。

 そんな話をした翌日。わたしは珠希たちと一緒に、霊験あらたかな縁結びの神社へ足を運んだ。
 恋のお守り、恋占いおみくじ、恋占いの石。わたしには布と紙と石にしか見えないけれど、目に見えないものを信仰する日本人としての感覚はわたしにもあって。半分以上付き合いでお守りを買い、おみくじを引き、10メートルほど先にある石に目を瞑ったままたどり着けるかという恋占いにも挑戦することになった。
「占うも何も、相手を見つけるところからはじめないといけないわたしにこれ要る?」
 そんな正論が、縁結びの神社に足を運んだ女子高生に通用しないのは重々承知だったし、暗黙の順番制に巻き込まれていた時点で逃げ道はないんだろうなって思っていた。
 先に挑戦した3人は、道行ふらふらしながらもなんとか中腰になり手探りしながら石に辿り着いていた。
 それを見てそもそも占いの成否を気にする要素がなく、運動神経にひそかに自信を持っていたわたしは、一切ブレずにスタスタ歩いてやろうという気概に溢れてすらいた。
「手助け無用。何も言わなくていいから」
 と、謎の余裕をもって助言を断り、目を瞑る。
 暗くなった視界の中、石畳で軽く踵を鳴らしながら歩を進めた。
 修学旅行シーズンで周りに人の気配はあるけれど、石の周辺はこの占いのために不自然に開けてあって、ぶつかるような心配はほとんどない。
 そんな風に思っていたので、後2歩くらいで石に辿り着くだろう辺りで、
「あっ」
 何かに驚くような珠希の声が聞こえても、自分に向けられたものだとは思わなかった。
「えっ」
 聞きなれない声と共に、上半身に何かがぶつかる衝撃が走る。驚いて思わず目を開けた時には雲一つない青い空が見えていて、
(あ、転んだ?)
 呑気にもそう思ったときには、もう尻餅をついていた。
「いっ……たくない」
 反射的に声を出してしまったけれど、その衝撃は想像よりはるかに軽かった。
 何があったのか判らないまま首をひねると、わたしの右腕を取り、背中を支えるようにして傍らに座っている男子と目が合った。思わずぱちりと、強く瞬きをしてしまう。
 文字通り目の前にあった端正な顔。ギリギリ掛からないくらいの髪の下から、黒い瞳が視線をこちらに向けている。整った鼻はわずかに膨らみ、頬も引きつっていたけれど、それでも一応「笑顔」と呼べるものが貼りついていた。
「あっぶなー」
 わたしを抱えるように支えてくれているその男子は、見覚えのある黒い制服を着ていた。
「あ、あの?」
「あー、えっと、小野寺さん、だっけ」
 苗字を呼ぶ声には、戸惑いがあった。今の状況で混乱しているのはどちらかと言えばわたしなのだけれど。どちら様? 何でわたしの隣に? この上げたままの右手はどうすれば?
 複数の疑問を浮かべながら、どれから尋ねたものか迷ってわたしが声を出せずにいると、
「気を付けてね」
 男子は、わたしの右腕を下ろし背中に当てていた手をさっと引くと、そんな風に言葉一つ残してそそくさと立ち去っていった。行く先には同じ制服を着た男子達が何人か。彼らに囃されながら、石段の向こうに歩いてゆく。
「梢! 何してんの!」
 ぼーっと眺めていたわけでもないが、珠希がそんな風に声を掛けてくるまで少し間があったように思う。
 聞いてみれば、というか聞くまでもなく今自分がいる場所を見てみれば、元の占い石の場所から大きく横に外れた位置に座っている。少なくとも大股で5歩6歩進まないと石に届かないような。どうやら、目を瞑っている間の感覚が本当に信じられないほどぐちゃぐちゃだったらしい。
 ぱっと周りを見渡してみれば、少なくない観光客の皆さんも呆れたり微笑んだりしている。
 つまり、どうやら、さっきの男子は、目を瞑ったままのわたしがぶつかりそうになって、慌てて手を出してしまい、そしてわたしは転んで、さらにそれを支えてくれた、らしくて。それを理解したとき、
「いや、でも、いや、嘘でしょ」
「いや私たちがそう思ってたよ。どんだけ曲がってくの、って」
 流石に、頬の熱さを自覚した。
 もう一度会ってちゃんと謝らないと、申し訳ないとかそんなレベルの話じゃない。自分の運動神経とか、それを自覚してない言動とか、そして掛けてしまった迷惑や、謝罪もお礼も言えてないことまで含めて。
 座り込んだ石畳の冷たさが急に思い出されて、勢い良く立ち上がる。男子が消えた石段の方を眺めることすらできず、誤魔化すために屈んでスカートを払った。不思議なことに埃なんて一つも付いていなかった。
 これ以上は後にも先にもないと思う恥ずかしさに、涙まで出てきそうになる。首も頬も、額までも熱い。上半身のあらゆるところから汗が滲んでいると錯覚すらした。
 あまりの熱に舌が回らない。それでも、一応口にする。
「さ、さっきの、だ、れ、誰だっけ」
 今までの人生で感じたことのない大きな感情のうねり。それは間違いなく恥ずかしさ以外の何物でもなかったのだけど、それに突き動かされるように、わたしの中では一つの言葉が渦巻いていた。
 見つけた。見つけた。見つけた。
「昨日話したじゃん。桜庭だよ、サッカー部の」
 昨日の恋バナに登場したらしきその名前は、正直なところ記憶になかったのだけど、でも、少なくとも地元の人とかじゃなくて良かった。
 二度と会う機会の無いような人じゃなくて、良かった。
「さくらば、桜庭くんね」
 一つ、深く息を吸う。秋口の冷たく澄んだ空気は、顔の火照りをほんの少しだけ鎮めてくれた。
「あ、梢!」
 桜庭くんが消えた方向に走り出す。原動力は、いたたまれなさ。
 今は、それでいい。
 わたしは、この「きっかけ」を逃すまいと、このとき心に決めたのだ。

 修学旅行が終わって学校に戻ると、早速、桜庭くんについて色々と聞いてみた。
 サッカー部で2年生ながらレギュラーで。でもうちのサッカー部そんなに人数いないよ。でも上手いのは間違いないらしくて。噂になってる大学生の彼女はあくまで噂で、本当は他に付き合ってる人がいるとか。同級生? どうだろ、そこまでは聞いたことない。でもイケメンなのは間違いないよね。そう? そうでしょ。あれをそうじゃないって言えるのは相当だよ。ジャニーズ系、ではないかな。えーでも顔はいいでしょ。笑ってるのは可愛い系かな。いや、かっこいい系でしょ、断固。なんでアンタそんな主張強いの。いや別に。成績、どうなんだっけ? どーだろ。特進とか行くイメージはない。でも悪いイメージもないね。イメージしか言ってないじゃん。いや成績の細かいとこ知らないでしょ。あとなんだ。マンガとか、好きかな。えー、それこそ判らなくない? 少なくともアンタほど読んではないと思う。ゲームはやってるっぽい。普段何の話してる? サッカーと、テレビはお笑いとか。お笑いかー、わたし判らん。
 わいわいと、いつの間にやら、人だかり。少なくともいろんな人に注目される人気の男子だということは判った。
 好意を向けているのは同じ学年だけで何人もいるようで、それぞれがそれぞれを牽制しながら、居るという噂の彼女を探っていた。その噂の彼女が誰なのか、それはしばらく待ってもついぞ判らなかったのだけど、それはそれで確証のない話だということで、諦める理由にはならないのだと前向きに考えることにした。
「梢ってさ、桜庭のこと好きなの?」
「うん。多分、そう」
 そういう返事をするようになったのは、ハロウィンも過ぎ、ジングルベルが聞こえ始めるくらい冬が濃くなってからだった。
 聞かれたときにだけ、ちゃんと返事をする。直接ではなくて周りに、わたしは彼が好きなんですよと伝える。それは応援に変わるときもあれば反発になるときもあったけれど、こういうときは好きという言葉は隠さない方がいいのだと理解していた。
 それでも「多分」とついているのは、断定してしまうのは奥ゆかしくないとの日本人的判断に基づく。
 修学旅行をきっかけに、わたしはそれまでの(読書)経験を総動員して「好き」に向き合い始めた。
 どうすれば格好いい桜庭くんを眺めることができるか考えた。平日はサッカー部の朝練に間に合うように登校したし、放課後の練習も眺めやすいよう3階に陣取る科学部に入った。週末の練習試合がうちの学校であるときは何かと理由をつけて科学部を動かした。おかげで理科の成績が良くなった。
 一緒にいる時間を増やすにはどうするか考えた。学期の初めにあった委員会選択では積極的に手を上げたし、後期の選択授業は敢えて白紙で提出して一度怒られ、次の日に決めた。昼休みもお弁当を持って食堂に行く機会が増えたし、年が明けてからは学外の塾を受講する予定も立てている。
 自分の気持ちを整理するために日記をつけ始めたし、読む本や普段聞く曲も様変わりした。桜庭くんはジャニーズやロックを良く聞いているけれど、それにラブソングが混じっていたりしたのは、わたしには好都合だった。少年漫画も、今まで読んでこなかったけど面白い物はたくさんあった。発見だ。
 今は、イベントでの過ごし方を見直している。ハロウィンでは特に学校でのイベントはなかったので何もすることがなかったけれど、この先クリスマスと新年、更に先にはバレンタインがある。桜庭くんが何をするかを考えて、その上でどうしたら喜んでもらえるかを考える。自分が嬉しいのは、桜庭くんに喜んでもらえることで、そのために何をするべきか。偶々町で会うより、そろそろ直接約束を取り付ける時期かな……。
 頭の中のメモ帳にペンを走らせていたところに、
「無理だと思うよ」
 珠希から、そんな言葉を向けられた。
「え?」
 ふと、顔を上げる。そこには、何年も一緒にいたのに、今までに見たことのない珠希の表情があった。目も口も、全く笑っていない。けど、そこに浮かんでる熱みたいなものは感じられた。何かが暗いまま燃えている、そんな風に感じる真っ黒な瞳がこちらを見つめていた。ジッと射貫くような、心の内側まで見透かすような視線に、息が詰まる。
「それは、どういう?」
「だから、無理だと思うよって」
 珠希はふっと息を吐いた。それと同時に表情は柔らかくなったけれど、それでもまだ何を考えているかは読み取れなくて、思わず尋ねた。
「珠希、何か知ってんの?」
 修学旅行の時、わたしに話を振ってきたのは珠希だった。珠希は、普段そんな話に加わろうとしないのでタイプなのでその意外さが今でも頭の片隅に引っかかっていた。
 その後、学校へ戻ってきて桜庭くんについて聞き込みを始めたわたしに真っ先に寄ってきたのは珠希だったし、わたしがこうして桜庭くんについて話している時、必ず珠希が近くにいた。
 ひょっとしたらと、推測が頭の中に組み上がる。
「どうだろね」
 珠希の、目を閉じたまま無関心を装うような返事。判りやすくはしてくれなかった。嫉妬とか、後ろ暗さとか、そんなものが少しでも見えれば確信できそうだったのに。
「人には聞いといて、誤魔化すとこ?」
「どうだろーね」
 今度はほんの少し笑いが入った。でもそれも、明るいものじゃない。嘲笑とか、そんな感じ。わたしのことを「そんなことするんだ、へー」って一つ上の階から見ているような。
 そんな顔の珠希は、わたしと同い年であるようにはとても感じられなかった。
「私、応援しないから」
 立ち上がって、上から目線で告げられる。
 付き合いは短くないけれど、珠希の言葉にムッとしたのはこれが初めてのことだった。

 もう少し、料理とか手伝おう。
 あまりの出来なさにそう決意したのは2月13日の夜だった。いや先週あたりから少しは思っていたけれど、それでもやらないまま決行してしまって、鍋を一つダメにした上、買ったチョコレートはほぼ全てホットチョコレートにせざるを得ない結果になってしまった。
 大量のホットチョコレートを飲みながら既製の板チョコをラッピングしていたら、お母さんに鍋の買い直しを命じられた。一葉先生とのお別れに思わず涙がこぼれた。
 そしてバレンタインデー当日。
 わたしの見た限り、桜庭くんはどんなプレゼントをもらっても、お返しに「一目で義理だとわかる」チョコレートクランチを渡していた。綺麗にラッピングされたチョコレートでも、先輩から手作りだよって宣言されても、後輩から顔を真っ赤にしながら手紙と一緒に渡されても、横にいる男子たちに囃されてクラスがいくら盛り上がっても、そのお返しは「一目で義理だと判る」チョコレートクランチだった。
 まぁ、受け取るときはしっかり喜んでくれるし、お返しの渡し方も雑なものではないので悪い印象は持たれないだろうけど。なんか、義理でもちゃんと対応してるところを皆に見せているって感じがした。教卓に短い行列までできていて、行ったことはないけどアイドルの握手会を見ている気分。
 そしてわたしは、教卓から離れた位置で、お返しに貰ったチョコレートクランチの黒い包装をくしゃくしゃと弄んでいた。ちなみに、中身はとうの昔に胃の中で、義理だと判っていてもちゃんと美味しかった。
「うーん」
 どうしようもないことだと理解していながら、頭を回す。昨日チョコ作りには失敗したけれど、手ごたえの話をするなら、何を準備しても変わらなかったんじゃないかっていうのが正直なところだ。
 渡す物が違っても、渡す順番が違っても、桜庭くんはちゃんと喜んでくれて、そしてお返しにこのチョコレートクランチをくれただろう。
 恋する女の子らしくチョコレート作りに精を出してみたものの、それに失敗しようと成功しようと、今のわたしでは他の結果は得られてないんだろうなと、確信に近くそう思えてしまう。それはやっぱり、
「寂しい?」
 聞こえた声に振り向くと、教卓から一番離れた廊下側の席に珠希が座っていた。と言っても、わたしの斜め後ろのその席がもともと珠希の席なんだけど。
 珠希はバレンタインでは結構貰う方だ。去年は先輩からも貰ってるのを見かけたし、ついさっきも後輩がやってきていた。うちの学校では友チョコの文化はかなり広いけど、学年を超えてまでってのはわたしに見える範囲では割と少ない。なので、少なくともモテる側という表現で間違いはないだろう。
 ただ、珠希が自分から渡しているのは、見たことがない。
 くるくると、さっき貰った板チョコを机の上に抑えて人差し指で回している珠希の表情は、どうにも楽しそうには見えなかった。
「寂しいって?」
「桜庭に、特別に扱われなくて」
 こちらを見上げた珠希の視線に、ドキリとした。
 珠希はここ最近、こんな風に何かを見抜いたようなことを言ってくるようになった。言葉を敢えて選んで、鋭く、でも伝わらない人には伝わらないように、判る人にだけ「判ってるよね」と伝えるように。
 そして、多分。珠希はこれだけ言えばわたしに伝わると思ってる。
「言ったけどね。無理だと思うよって」
 回していた板チョコをぴたりと止めて、けらけらと珠希の口元が明るく笑う。それはいつも教室にいるときの珠希の笑顔で、先輩にも後輩にも同級生にも好かれる可愛らしい女の子のもの。ただ、目元だけはまったく笑わず、わたしを見つめていた。
「梢だから言ってんだよ」
 また、あの熱を感じた。暗いまま燃える不思議な炎。瞳の奥に感じるそれに気圧されそうになると同時、珠希の自分は絶対に正しいって態度に、以前と同じ反発心が湧いてくる。
 だから、口にする。
「わたしさ」
 まだ、折れない。
 だってまだ、直接、伝えてない。
「もうちょっとだけ、やってみる」
 珠希の目を見ながら口に出すと、心が軋む音が聞こえた気がした。
 多分この先の結果が、自分自身予想できてはいるのだ。
 それでももう少しだけ、最後まで、やってみたい。
 そんな、心の伴ってないハリボテみたいなわたしの宣言を聴いて、珠希はふいっと視線を逸らす。手元の板チョコの包装を雑に破って、
「好きにしたら」
 パキンと、不機嫌を隠さないまま噛み割った。

 終業式の日。桜は咲いていなかった。
 学校から少し離れた、有名な一本桜の下。登下校に使われる道でもなく、同級生もなかなか通りすがらないこの場所で、わたしは人生で初めて、告白をした。
 自分で何と言って告白したのかは、あまり覚えてない。「好きです」とか「付き合ってください」とか、そういった月並みな言葉しか言えなかったと思う。
「そっか。すげー嬉しい」
 桜庭くんの笑顔に、取り繕っているようなところはなかった。わたしが周りに好きだって言っていたことを知らなかったわけではないだろうし、驚きよりも嬉しさが内から滲んだというのがしっくりくるような、やわらかい日差しのような笑顔だった。
 修学旅行で初めて意識して、友達から色んなことを聞いて、秋には遠くから眺めて、冬には一緒にいる時間を少しずつ増やして、バレンタインではチョコレートも渡して、今までやってこなかった色々を、試行錯誤した。
 きっかけは何でもいい。好きだと言っていれば、いつか好きになるものだ。
 マンガも、ラブソングも、友達も、みんなそう教えてくれた。
 そして、それでも。
「でも僕、今、好きな人いるんだ」
 そう言われるのは、判っていた。
 それを判っていながら、それでも告白せずにはいられなかった。
「だから、ごめん」
 桜庭くんは頭を下げてくれる。それがとても申し訳なく思えてきて、最初に会った時のいたたまれなさをほんの少し思い出す。
 この告白は、わたしの勝手なんだ。謝られるようなことじゃない。断られるだろうと半分以上確信していて、それでも、告白したいと思った、わたしの勝手。
 だから、そんな身勝手な告白に誠実に対応してくれたことに、こんな誠実な桜庭くんを謝らせてしまったことに、わたしの心はほんの少しだけ抉られてしまった。
「ううん。こっちこそ、ごめんね」
 そうして、わたしの人生初めての告白は、あっけないほど簡単に、終わった。

 一緒に学校まで歩くのは流石に心地悪いだろうと思い、わたしは近くにあったベンチに座って桜庭くんが坂道を駆けていくのを眺めた。ふくらはぎが綺麗だなぁとか、走り方が様になってるなぁとか思っていると、不意に、頬に冷たいものが当てられた。
「お疲れー」
 珠希が、にやにや笑いながら両手をわたしの頬に当てていた。
「別に、」
 疲れるようなことしてない、と言おうとして、珠希が今日の話をしているのではないと気付いた。
 本当に、見透かしている。
「無理だったでしょ」
「無理だった」
 素直に認める。ここ何ヶ月か、珠希に言われていた通りだった。
 わたしは、桜庭くんに身勝手な告白をした。
 それは桜庭くんを好きな気持ちが、好きな人が別にいることを知ってもなお告白したいほど強かった、という話ではない。
 わたしは、「告白した自分」というものを欲しがったのだ。
 修学旅行の夜に話したように、周りの皆がやっているように、誰かを好きになって舞い上がってみたかった。
 自分だって誰かを好きになれるのだと、そう思いたかった。
 初めて会ったときに優しくしてくれたことも、スポーツの時の格好良さも、日差しのような笑顔も、身勝手な告白にきちんと対応してくれる誠実さも、全部魅力的で、好きになる理由はこれだけ揃っていて、万全の状況で告白して、それでもなお、

 ――好きという感情を、抱けなかったのだ。

 人を好きになることに憧れて、きっかけを見つけた気になって、好きになろうと振舞ってはみたけれど、会えないときのふわふわした心地も、次に会う機会を待ち遠しく思うことも、一緒にいるという暖かさも、ただの一度も味わえなかった。
 修学旅行の時に感じたいたたまれなさが恋心に変わることはなかったし、バレンタインで特別にはなれないのだと理解しても全く寂しさを覚えなかった。
 周りにも自分にも、桜庭くんが好きなんだと言い続けて、告白までしてみたけれど、人を好きになるって気持ちは判らないままだった。
 恋に恋したわたしだけれど、恋すら、わたしに振り向いてはくれなかった。
「失恋、しちゃったなぁ」
 その言葉は、わたしが口にしても湿っぽさの欠片もなく。
 ちっとも悲しく思えてないことが、とてつもなく悲しかった。
「別に良いんじゃない。誰も好きになれなくてもさ」
 そんな珠希の声がわたしの心に染みていく。混ざり合っても、温度は全く変わらない。
「私は、そんな梢が好きだよー」
「うるさい」
 珠希の揶揄いにそんな返事をした時には、頬に当てられた手の平も冷たく感じなくなっていた。

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