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銀の鈴、八重洲口

叔父の三回忌か何かで上京していた父から電話があり、東京駅の銀の鈴で待ち合わせしようと言われた。父の世代は、東京駅と言えば銀の鈴なのだろう。

住所、電話番号、メールアドレス、すべてを変えて両親と連絡を絶ってからの数年は、とても気が楽だった。なぜもっと早くそうしなかったのだろう。妹の結婚式でやむなく顔を合わせ、電話番号を知られた。叔父の葬儀でまた顔を合わせたが、ほとんど口を利かなかった。翌年には祖母の葬儀でも顔を合わせていた。

銀の鈴に、父は叔母と一緒に現れた。68歳ぐらいだったのではないだろうか。定年退職し、眼を患い、運転免許を返納して母と二人で暮らしていた。

三人で八重洲口を出て、ビルを上がってカフェバーのような店に入った。客はいない。叔母が努めて世間話をして、先に席を立ち、帰った。父と私のふたりきりになった。

俺は飲むぞ。お前も飲めよ。父はビールを注文したが、私は断った。

一度、帰って来い。父はそう言った。実家には10年以上、寄り付いていなかった。

俺はもうすぐ死ぬ。兄貴も親父も60代で死んだ。俺ももうすぐだろう。子どもたちには財産を早めに譲渡しておきたい。父はそう言った。

なぜ、俺が家に帰らないのかわかってるか。
私がそう言うと、父は虚を衝かれて黙ってしまったので、もう一度言った。
なぜ、俺が家に帰らないのかわかってるか。
私が父にそんなことを言うのは初めてだった。

俺がお前たちを殴ったからだと思う。
父はそう言った。
それは、今でもトゲが刺さったように残っている、と。

トゲが刺さった程度か。
私はそう思った。

俺は、あなたたち両親を反面教師として生きてきた。尊敬に値しない人間から財産を分与される気などさらさらない。弟と妹に分けるか、どこかに寄付するかすればいい。

私はそう言って、ひたすら水を飲んだ。喉が渇く。40代になるまで言えなかったことを、今言っているからだった。

グラスを空けるたびにウェイトレスが水を注いでくれる。まるで隣で聴いていて、私を応援してくれているようだった。

会談を終え、ふたりで八重洲口に戻ったが、私は父を残して振り返ることもなく、薄暗い駅構内に向かって歩いた。

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