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風景と私(4)身捨つるほどの祖国は

1993年、カタールのドーハ。サッカー日本代表は初のW杯出場を目指して最終予選に挑んでいた。かつては歯が立たなかった韓国に勝ち、最後のイラク戦に勝てば出場が決まる。日本列島は興奮のるつぼと化した。サッカーをプレーするのも観るのも好きな私は、テレビの前で応援していた。

あの頃、日本のサッカーはなぜ強くなったのだろう。関係者の地道な努力、育成の充実、Jリーグ発足。いろいろ挙げられるだろうが、私は日本の経済力だと思っている。ブラジルのような生き残りをかけたハングリー精神とは対照的に、経済力が子どもたちに充分な機会を与え、経済力をバックに有名な外国人選手や監督を招いてプロリーグが誕生した。

バブル崩壊は始まっていたが、それでも日本はまだ先進国の一員だった。さらに言えば、日本は工業先進国であり、経済を発展させたのは紛れもなく工業だった。つまりは、工業がサッカーを強くした。

イラク戦は空前の盛り上がりを見せた。一様に青いユニフォームを着た群衆が街に繰り出し、跳び、叫ぶ。ニッポン!ニッポン!日の丸はびっしりと寄せ書きで埋まり、戦争を知らない若者の鉢巻きに神風の文字が躍る。

テレビが煽る。信じれば夢は叶います。皆さんの思いは必ずドーハに届き、選手の勇気となります。どうか皆さんの力をドーハに送ってください。ニッポン!ニッポン!

黒い気流が体内に湧く。

試合はリードして追いつかれ、またリードして後半ロスタイムを迎えた。誰もが勝利を確信したとき、イラクの意表を突いたショートコーナーからセンタリングが上がり、ヘディングされたボールがふわっとゴールに吸い込まれた。2-2の同点。倒れ込む選手たち。試合終了のホイッスル。

日本代表は、ほぼ手中に収めていたW杯出場を逃した。絶句する実況、そして国民。テレビを消し、部屋を出て空を見上げると、おぼろ月が滲んでいた。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

寺山修司

私は心の中で呟いた。ざまあみろ。
愚民たちのマスゲーム、吹くはずもない神風。

どのようにこの国を去ろうか。希望する国の大使館を訪れて言う。亡命を希望する者です。職員は問う。理由は何ですか。どうもこの国に合わないのです。亡命の理由にはなりません。難民でもだめですか。だめです。

1993年は「矢ガモ」事件があった年でもある。背中に矢が刺さったままのカモをメディアが連日追い回し、国民の注目を集め続けた。たった一羽の野鳥に。

風景は、社会であり人間だった。社会の熱狂はとりもなおさず私の虚無であり、密室に焚いたバルサンのように充満して私が喫う空気を狭めていった。

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