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フィジカル
ままならないことが多いです。
特に対人関係、他人の気持ちや行動、あるいは自分に対する評価というものは、自然の摂理として、意のままにならないものです。
でもなぜか、報われたい、わかってほしい、なんでわかってくれないの!と思ってしまう。困ったものです。
仕事も似たようなもので、投じたリソースに見合う成果や報酬を得られる保証はありません。以前、「仕事はフィクションだ」というようなnoteを書いたのですが、フィクションであるのは仕事上の人格の話であって、仕事そのものはバーチャルなんじゃないかと、最近は思う。今DXに携わっていることは関係ありません。
事務屋は虚しい。
ハコやモノをつくっているわけでもないし、話を右から左へ、下から上へ動かして、忙しなく、何かを成している素振りをしているだけなのではないか。動かして動くのならいいけれど、受け取ってもらえなかったり、遠くへ放り投げられたりするのだから。
社会人8年目にして、仕事の成否の半分は運なのではないかと思い始めている。
ままならないことやバーチャルに翻弄されて、心をやられてしまっては、いよいよ笑えない。これは自分に対する言葉です。
インターネットの台頭、スマートフォンが世を席巻してしばらく、言い尽くされているのは承知の上であえて言いたいのは、スクリーンから離れよ、フィジカルな作用とその返報を体験せよ、ということ。
新しい日常 with 感染症において、わたしたちは、遠くの街を訪れたり、自然に包まれたり、自分の手では生み出すことができない料理を味わったり、運動して汗をかいたり、という喜びを得られにくくなりました。
代わりに、自室のモニター越しに仕事や他人が入り込んできたり、Amazonからガスメーターボックスに生活必需品を放られたりすることが増えました。慣れないうちはそれも目新しく、それなりに楽しかったような気もするけれど、すっかり不感になってしまって。
今こそ、フィジカルな感度を取り戻したい。無意識の欲求を自覚させたのは、観葉植物でした。
適した環境に置き、適した頻度、適した量の水を与えれば、育ち、芽が出る。
ちゃんと応えてくれる。
料理や家事でも同じような体験を得られます。レシピに則ってつくれば、美味しく出来上がる。拭けばきれいになる。そこに意思は介在しないから、作用がそのまま果実になる。報われます。
きっと、トレーニングに没入するのも同じ感覚でしょう。鍛えた分だけ筋肉になる。文字どおりフィジカル。
応えてくれる確かなものたちが、心の平穏に効くように思う。報われないものは不安だから。確かなものが基礎にあって、初めて不安定なものに挑めるのではないかと思う。
確からしいものたちをリスト化しておこう。思い付いたら随時更新する。
・植物
・料理
・掃除、片付け
・トレーニング
・マッサージ、ストレッチ
・保湿
・深呼吸
・笑顔、姿勢を正す
・飲食
・入浴
・音楽
・換気
*いずれも趣味の範囲というか、生業にしない限りにおいて。
気を抜くとついスクリーンと見つめあって溶かしてしまう時間を、フィジカルな体験に充てたい。これはデジタル・ミニマリスト宣言でもあるのです。
(本当はスパンクハッピーを貼りたかった。)
追記
「返報性だけでいえばソシャゲなども同義では」と問われ、いやフィジカル言ってるやろ、と返したものの、よく見るとフィジカルについての言及が薄かったので追記します。
確かに、世の中には投入量に見合っただけの脳汁分泌を促してくれるサービスや物質はあると思います。
ここで言うフィジカルな体験とは、物質的な作用に対する返報を指しています。
物質的な作用とは、植物であれば「水」、食材であれば「熱や調味料」であり、「金銭」や「時間」は含みません。
金銭や時間が作用として成立するには、受け手がそれらに価値があると認める必要があります。つまり、意思が介在するわけで、これはフィジカルではありません。メンタルです。